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なんでギャルゲーはインタラクティブストーリーにならなかったのか

先日の GTA 日記(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080506#p2)への反応で、複雑系っぽいイベント発生はエモーショナルなんだけどあんまりないよね的なエントリがあったので、その状況を恋愛ゲーに落とし込む際の困難について、ちょっと考えてみた。けどちょっと考える程度の話ではなかったな、おおごとだ。まとまらなかった。

現在では、こうした AI 動作型ゲームは TPS タイプのゲームに多いけど、テキストベースで AI を利用したゲームが出て欲しいものだ。TPS だと開発コストが高いけど、テキストベースなら、開発コストを下げられるだろうから、開発しやすいんじゃないかと。

まったくだ。「天国から来た男」にはユニークな感動があった。ああいうものならおれもやりたい。でもその選択肢を、すくなくとも日本の恋愛ゲー界隈は捨てた。いや捨ててはいない、という話もできるんだろうけど、ようは「なぜ恋愛 SLG は廃れ、恋愛 ADV まみれになったのか」、というあたりの再整理…をしようと思ったけど、過去日記検索してみたらだいたい書いてあった。つまり、

「半端なシミュレータ作っても体験の密度が散漫になるだけだから、だったらいっそバリエーション抑え目でもいいので ADV できちんとした筋道を」(揺らぎもハズレも排除した「全部当たりのくじびき」へ)って路線に必然的に収束していった結果が現在

当該日記においておれは「同人なら、あるいは…」とか夢見がちなこと書いてんだけど、べつに現在の同人ゲー界隈というのは(残念ながら)システム開発によってまだ見たことのない境地を開拓しようという男気によっては成立していない世界であるという諦念みたいなものも同時にあったりするのだった。いやたとえば ADV として「ひぐらしのなく頃に」とかが新しくなかったという意味ではないのだけど、大雑把に男の子のドリームとして「システム開発」「インフラ開発」「コンテンツ開発」の三つがあったとしたときに、注目が集まるのは多数の「コンテンツ開発」と少数の「インフラ開発」の二つで、「システム開発」は当世においてはどうやったって日陰なんだよねーなんでだ、みたいな話に落ちる。インフラはまあマネーの香りに誘われる各種の方々に頑張ってもらうとして、ひぐらしの新規性はコンテンツ開発的な枠内だと思うし、またシステム開発という意味では最も直截的にエゴの出やい STG 界隈においても、弾幕ゲーの大波が、それらをコンテンツ開発っぽいイメージへと転換していったりとかした。蘇れエンジニア魂!テクノロジーの股からうっかり生まれ落ちたネオテニーたちよ!

ただ、じゃあ、今そういうものが再び盛り上がったとして、それでみんながハッピーになれるのかというと、そうは思えない。恋愛 SLG が死んで恋愛 ADV になったというのにも、それにはそれなりの正しさがある。「揺らぎもハズレも排除した「全部当たりのくじびき」へ」と書いたのがまさにそこで、シミュレータとして考えたときに恋愛 SLG って体験の密度が、必然的に ADV よりも薄くなるわけなんだよね。よくできてるゲームには生っぽい感動があって、それは換え難いものなんだけど、そういうゲームでも「感動的でもなんでもない単なる退屈な時間」とか「悪くはないんだけど食い足りないイベント」とかを見ている時間のほうが、間違いなく圧倒的に長い。一回のプレイ中に必ず情緒的なピークがやってくるという保障もない。必ず感動するとは決まっていないことに感動させられるのが、生っぽさというものだし。でも必ず感動したいわけよな。それは作品消費の傾向としてもだし、その基盤である生活スタイルの変化などからもなんとなくわかる。あんま無駄っぽいことしたくないのだ。無駄っぽいというのは実利云々とかではなくて、不確実なものよりも確実なものを選ぶというような意味。

漠然と「携帯電話以降」みたいな肌感覚がある。ほんの 10 数年前までは携帯電話というのは超レアなアイテムで、その頃は街でひとと待ち合わせたりするときに、細かく連絡を取り合ったりできなかった。ので、そもそもどこかに遊びに行くときには現地合流じゃなくて誰かの家に集合だったり、待ち合わせに失敗すると空振りになったり、あるいは溜まり場で来るか来ないかわからない相手を、とりあえずボーッと待っていたりした。いまじゃ考えられない。とりあえず電話なりメールなりする。短間隔に連絡を取り合って調整し、確実性を高め、密度を編集する。それができる。できてあたりまえ。即興性はあって当たり前だが、それゆえに人為的に体験を制御することにみんなが慣れた。だから恋愛ゲーは ADV になった、とまでいくと強引すぎだが(もうちょっと具体的でショボい理由とか幾らでも想像できるわけだし)、まあなんかそれが結果的に支持されたことには無関係じゃないんじゃないかなーと思ったりしている。ドラマの緩急に全部人間の手が入っている 1 プレイ 60 時間のエロゲー体験のほうが、偶発ドラマ待ちのシミュレータ 60 時間プレイよりも、それは選ばれるだろう。

ゲーム脳日記(http://blog.livedoor.jp/spikee_rez/)のノト氏の、GTA4 に関する Twitter 発言は示唆的だった。

これはドキュメンタリーだな。ドキュメンタリーからドラマが立ち上がる瞬間まで長時間遊ばないと(体験として付き合わないと)強度が実感できないのはドキュメンタリーの負性?そこらへんある程度編集可能なのかしら。R ★もいろいろ試行錯誤中なんだろうけど…

スクリプトにより演出されたドラマと対応する、いまだ達成されていない、AI エコロジーによるドキュメンタリーみたいなものがイメージされる。スクリプト最強伝説として現時点で思い浮かぶのは COD4 ということになるかと思う。酔い痴れるというよりは酔っ払うほどの密度でガチガチに制御された世界。一方で AI エコロジー方面は発展途上。GTA4 の場合には、エコロジーってほど連続した環境とはいえないし、そもそも(発表当初)「AI エコロジー」という宣伝文句を掲げた Bioshock においては片鱗程度にしかその成果は見えなかった。いまだその境地は遠く、到達したとしてもそれがハッピーなゲーム体験に対してどう駆使されるべきなのか未明。より突っ込むと、別に GTA4 は反スクリプト主義なゲームではなく、むしろ超スクリプト主義なゲームであるともいえて、ただその膨大なスクリプト(ドラマ)は断片化されていて、それらを繋ぐ部分が AI エコロジーっぽさ(ドキュメンタリー)にブン投げられている、そして「ドキュメンタリー中に偶然生じるドラマ」みたいなものにも(あくまでそれ以外の部分でおもしろ度を確保したうえで)期待する、というような見方ができる、というかんじか。

恋愛 SLG がドキュメンタリーな退屈さに打ち勝てず、GTA4 が成功しているように感じられるのには、もちろん GTA4 には即興性などなくとも十二分に楽しめるシナリオが準備されてあるということもあるけど、そういうことではなくて、一目瞭然の「ただそこに居るという空気感」が、イベント発生中であるか否かにかかわらず、画面からビシバシ漂っているからかなーと思えた。ようは、退屈な日常の中にあっても、リバティシティには体験としての密度が溢れているのだ。それが「単に綺麗なだけではない実効的なグラフィックやサウンドの使い方」であったり、次世代的なゲーム体験ということなのかなと、思ったりする。

後日まとめなおす。