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最近の読書

文庫版十八巻買って読み終わった。うおおおおお。あと残すところ一冊となってしまった。終わるのか、というと、終わりそうだ、というかんじになってきた。流れが渦を巻いて二本の槍に研ぎ澄まされ、それらが最後にぶつかることで、たぶん決着がつくというかんじになる、が、渦といっても水ではなくこれは歴史の濁流だ。地盤が隆起していく過程でボロボロと崩れ落ちていく土塊の中には石もあれば鉄もあり、人間はその最小単位にすぎない。いろんなものが巻き込まれ弾き飛ばされしていくうちに、気がついたら居なくなった顔のほうが多い。大局面へ向っていく視点は高く高く昇ってゆくのかといえば、北方水滸伝の視点は最後まで神の視点を取るつもりがないようだ(RTS においては ENDWAR 的なアプローチといえるのかもしれない)。それだけに、そこに居ない人間のことを考えずには居れない。渦の中心から遠くなった人間が重要ではないということでもない。すべてを描こうとするタイプの責任感とは北方氏は一線を引いていて、それは美学としてわかりやすく、また正しくもある。あさりよしとお氏における「WAHHAMAN」と藤田和日郎氏における「うしおととら」の終わりかたの対象性問題と無関係ではない。それだけでなく、人間はどこに居ても人間であり、そこにかぶさってくる物語の大きさと、描かれる視点の問題について、ちょっと考えてみたくなった。最後におれがなにを見たいと思うことになるのかは、まだ決めあぐねている。

来月いよいよ最終の 19 巻発売だから、水滸伝再読スケジュールも計画をはじめないといけない。