ドラえもん のび太の新魔界大冒険 七人の魔法使い
新ドラの魔界大冒険の DVD が出ていたので買ってきた。ドラちゃーん。美夜子さーん。スネ夫ー。スネ夫?
去年劇場で見た感想。
今回の感想。
- 02/11 01:30 新魔界大冒険は作画アニメとして買ったわけだが、シンエイ動画社に詳しくないので文脈読みが全然できないのは残念。というか HD ソースじゃないので鑑賞タイトル購入ってより「おもしろかったよ代」としての意図がどうしても強くなってしまうな。せめて 720p でみせれー。
- 02/11 02:01 視聴開始。ちょっと考えられないくらい小学館社のロゴがダサい。
- 02/11 02:06 ここ最近のアニメ鑑賞で地続きになってるぶん、セラムン→ミサト→樹璃→玉子という三石氏声優キャリア変遷が熱い。けど本編には関係ない。いや、なくはない。
- 02/11 04:01 美夜子さん凛々しいわー。
- ストーリー(設定)改変(増補)によるガチャガチャ問題。劇場で見たときは「おれには要らないけど、これはこれで正しいなーアリだなー」と思ったんだけど、今 DVD で見たら「うわーメドゥーサの設定要らないわー」と思ったのだった。この感じ方の違いってなんだろうと考えたが、視聴体験がプライベートなのかパブリックなのかという話だろう。劇場で見てるときは、本作は同時に劇場に居る親御さんや子供のためのものでもある(=みんなのものである映画をおれも見る)という感覚だが、これを家で一人で見ると、この内容がおれにとってアリかナシかだけで判断することになる。だから、おれにとっては要らない部分が単に邪魔として感じられるのだな。これがたとえば TV 放送を見る場合では全然違ってくる。TV はやはり「みんなのもの」だし、そうあるべきという前提で扱うことによっておもしろさが作られるメディアだからだ。
- この感じ方の違いは、どう寄せていくかあるいは寄らないかは個別事例として、切り分け方として案外大事な部分だなと思ったので忘れないようにしておきたい。私的空間と公的空間を行き来するモノのとらえ方はどちら側に寄っていくのか的な。はたまた、長年のテーマのひとつである「作品を私有するという感覚のある種のおぞましさと愉悦」みたいなものへの経路として。
- これがまたニコニコ動画とかの動画共有サイトだと、また全然違うのだろうなー。そのへんの感覚差はちょっと興味深い。半同期だがそこにある公共性はちょっとユニークかもだし、なにも考えてないひとはプライベートな感性にしか立脚しないのでそこで潮目も生まれるのだろうし。その前時代は TV の実況スレッドとかなんだろうが、この妄想長くなるので中止。
- ところで新魔界大冒険における原作改変箇所は、ようは「親子関係」ということになる。原作ではレギュラーキャラの親子関係とか希薄で、ゲストキャラの親子も特に因縁がこじれたりしておらず、公明正大な父親によくできた娘というかんじなんだけど、本作ではどうもそうなっていない。
- 親は子を問答無用で守る。地震のシーンで玉子がのび太をひっ掴む速度は印象的だ。このアプローチはクレヨンしんちゃんでも見ることができた。しかし本作では、(レギュラーではなくゲストキャラの関係においてだが)親が子のために間違いを犯すというところまで踏み込んでいる。そしてそれは受け入れるしかないよね、というところまで描いている…のかどうかはまだ判断できないのだが、とりあえず「そりゃ子は親より先に責任とれないんだからしょうがないよね」と思った。んだけど、そういう話を子供に見せるのか、ゼロ年代てちょっとめんどくさいなと感じた。無邪気の子供は善意や正しさみたいな清潔な道徳を信じて生きればいいってのが昭和の価値観だと思うんだけど、愛情とかケガレに近いものを呑み込む分別をスクリーン上でとはいえ見なければいかんのはめんどくさくて切ないなというか。
- まあべつにのび太の親がとかしんのすけの親がとかいう話ではないので、作品に感情移入するにしてもまだ当事性とかは低いから、予行演習なのだろうけど。いずれあれよな、子供が親の間違いを引き受ける、とまでいくような子供向けアニメとか出てくるかもだな。そういう方向の先陣が日曜朝の女児向けアニメから出てくるようだとおもしろすぎ&仄暗すぎて逆に見た過ぎるとか妄想したけど我執。
べつにぜんぜんそんな映画ではないんだけど部分的なところをダラダラ書いて指が疲れたのでこのへんまで。めんどいこと抜きで、おもわずパラパラアニメを練習したくなるタイプの良い作画アニメなので、キャラクタの動きを目で追うだけで眼福。