風呂関連
時間は歴史ではないし人生はストーリーではない。歴史やストーリーはいわば自分がどこから来てどこへゆくのか理解のための足がかりであり、虚無に陥らないため宙を掻く手応えを偽造するものだ。ミクロな話でいえば日記もそうした営為のひとつだ。おれは時間を生きていて日記を生きているわけではなく、たぶん脳内衆議院はそのようにしか駆動しないが、脳内参議院の業務として日記をつける。そこに意味はないかもしれないわけだが、その確率計算自体が脳内参議院の存在意義という甚だ曖昧な土台に根ざしており、考えても仕方ない。
…というようなわけで風呂だが、トラブルつづきだったこの夏以降はじめての目覚ましい改善傾向。風呂沸かしマシーンの点火安定性が劇的に向上した。つまり本来の機能を取り戻した。ボタン押せば沸く。あたりまえのようだが違う。その機能がぶっこわれた状態で半年ほど暮らしていたおれがいうのだから間違いない。ボタンを押せば風呂が沸くという生活は当たり前ではない。常識として文明のうえにあぐらをかいていてはならない。斜陽の 21 世紀はどの時点からサヴァイブ開始かわからないのだ。
ともあれ、これが一時的な小康状態なのかわからないが文化生活へ復帰。無事に点火するよう毎晩凍える風呂場でうずくまり祈りを捧げるカーゴカルトと化していた暗黒時代終わり。ワンボタン即沸かし開始。沸いた。湯を浴びた。熱い熱いぞ熱すぎるほどだ。笑った。こうでなくては。これが平成の風呂だ。昨日までは昭和の風呂のようだった。すばらしい。湯船につかってなお高笑いが続く。滅多に鼻歌など歌わないおれが第九だのシチリアーノだの歌っている。これぞ笑いながらハミング。唐突にハルヒの境地に到達。風呂を上がれば裸足サンダルで家を飛び出し自販機でコーラ缶を買って一気飲み。全身から放射する熱気と世界から押し寄せる冷気が渦を巻く西高東低の気圧配置。なんと心地の良い湯冷めであろうか。
でもまだシャワーは水しか出ないんだよね。そのうちなんとかなるだろう。