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オタクドロップアウト問題

  • オタクがオタクで居続けるための年次単位取得に失敗してズルズルとオタク中退→単なる非モテと化す、という話を読んだが、それはたぶん 20 代とかの話だ。おっさんになったあとオタクを続けるか止めるかの選択はそういうのと別にある。オタクであることをやめたあとのオタクに残るものは少ない。
  • 現代は同時間情報が溢れてしまっているために、まじめに情報を追っかけようとした場合最新の更新差分を追いかけるだけで精一杯という状況になりがちだ。アーカイブを漁ったり、ソース確認するための所要コストの大きい情報へアクセスするのを後回しにしたまま結局やらない、というふうになっていく。結果犬時間になり四ヶ月前のことを忘れ簡単に同じループに陥り、意味のある積み上げが失われ積み木あそびに終始する毎日。それでいいのかという話は以前からあったが、上記のような「オタク中退」的な感覚は、そうした認識をより進行させたものだ。アップデートに追われることを当然として受け入れた場合に、それができていないと自覚すれば、つまり年次取得単位失敗であり、もはや自分はオタクではないと感覚するに至る。そこを突破した先には、「最近の流行がよくわからないオタクであるおれ」とかになるのだが。情報圧が高まっている現代だと、そう感覚する経路が相対的に細まっているのかも。
  • アップデートに追われる以外の道は自力で選ばねばならない。己のオタク性に没入する、ようは「やりこみ」だ。オタクにおける求道的精神(のようにも見えるもの)は、それを培う土壌が痩せてしまっているのは確かで、90 年代的な処方箋はあまり意味がない。とはいえあの感覚も、あるいは 10 年後の我々にそれほど良い結果はもたらさなかったのかもしれないなと思わんでもない。いまさら切った舵を戻そうとは思わないので、これはこのままいくんだけど。
  • というかインターネットという巨大な世界ランキング&攻略情報共有メディアの存在によって、「単なる個人的なやりこみ」が、無意味化とはいわないけどもだいぶ甲斐のないことということになっている、という問題がある。世界最高レベルと馬鹿の両極端に意味が偏重し、その中間が空気のように薄く無価値になってしまうというか、いやそんな単純でもないんだけど。
  • 世間のアップデートを追うことには当然意味がある。が、それのみによって自分の立ち位置を確かめつづけることはできない。そして、自分の中で時代感をアップデートさせることが、生き方としてのオタクを考えるうえではとても大事だと思う。自分なりのやりこみが自分なりの攻略テーマを作り、やがて独自のゲームデザインに至る。平凡なオタは世間の大道に沿うことになるだろうし、非凡なオタには前人未踏の茨の道が待っている。大概の人間は大部分平凡でごくわずかに非凡なので、苦あり楽ありみたいなかんじになるだろう。これは日記によって強化された考えのひとつだから、偏ってもいるし、あるいは正しくないのかもしれない。ほかのことする余裕がないほど消費に没頭してみれば、そんな考えではやっていけないとわかるし。