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A さんを囲む会

A さんを囲む会

インターネットのひとである A さんを囲む会をやろうという話があったので参加した。おもしろかった。朝から雪降っててどうなることかと思ったけど、夕方には収まり、どうにかなったかんじ。いろいろ聞いたり話したりしたけど、例によって覚えてないのでおれが関係あった部分だけメモ。

  • 「勉強してオタクになった」問題
    • A さんは「勉強してオタクになった」的な気分を強く自覚しているひとで、たぶんその気分はおれにもわかる部分がかなりあるなと思った一方で、その場合の「勉強」問題はおれの場合(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060326#p1)とは様相がかなり違うなと思った。おれは中学くらいからオタクになっていて、A さんの場合は大学以降にオタクになっている、というそこには受験勉強以前と以後における「勉強」の性質の違いがはっきり出ているはずだ。
  • 自分の中のメタとベタを経営する話
    • 人間はメシを食わねば死ぬことから、ベタな自分を見失うことが基本的にないはずなのだが、インターネットにおける世間ばかりを眺める生活を送ってしまうと、暮らしのベタとネットのメタが乖離しているかのような錯覚を覚えたりする。衣食住の確保を自分でする必要のないひとだと、社会人よりもベタの感覚が薄かったり、またそれを体感する機会が少なかったりして、よりその傾向は強くなるかもしれない。で、そのような純化はオタクとしての完成度を落とすので、じゃあどうやってそうしたメタベタのバランスを経営するか、というような話になってくる。
    • …というようなことを考える際に、ゲームはかなり便利だ。ゲームプレイは自分が(趣味において)ベタでしかない時間帯といえて、そこに入り浸っているかぎりベタである自分は容易に確認できる。そういう場を生活サイクルに組み込んであるわけだから、どんだけメタ側に寄っても定期的に揺り戻しが掛かるので健全というか。
    • ひるがえってインターネットを見ると、おれが普段読んでるゲーム系サイトてあれなんじゃよね「ゲームニュース」とか「ゲームレビュー」とか「ゲーム業界考察」とかそういうのじゃなくて、ようするに「ゲーオタの日記」なんだよね。「ゲームの話をしている非ゲーオタのサイト」と「ゲームの話をあまりしないゲーオタのサイト」の場合どちらがゲーム日記に見えるかといえば勿論前者なんだろうけど、でもおれが読みたいのは後者。べつにねーそのひとがゲーオタでさえあれば、いいんだよ全然ゲームの話とか書いてなくたって。そりゃもちろんゲーオタがゲームについての日記を書いてるのが一番なんだけど、「同時代のゲーオタが今なにを見てどう思っているのか」という興味が根っこなので、話題じゃなくて人がどうしてもベースになる。メタベタの経営がうまくいってるように見えるひと、ということかもしれない。まあそこでは原理的にやはり「実態がどうあれそのように見えるか否か」という話になってしまうんだけど、ゲーオタの場合判定はわりあい単純。ゲームプレイがベタ側にある以上、「メタ偏重なゲーオタ」などは存在しないので、「なんかゲーオタとしてのベタさが見えないひとだな」と思ったら、脳内同時代ゲーオタリストから除外。
  • 2ch っぽさ」ってべつにそういうものではないのかもね、という話。
    • おれは、帰属意識的に自アン民だからという理由だけでもないんだけど、全体的に 2ch っぽいものが嫌いなのだが(ちなみに自アン民が嫌うのは「2ch 以外のコミュニティにおいても、そこがまるで 2ch であるかのように振舞う人々」で、2ch 関連であればなんでも毛嫌いする、というのは自アン民の態度として必ずしも適切ではない)、しかしそのおれが嫌いな「2ch っぽさ」の実態というか本質というか、そのようなものは、べつにそれが 2ch だからこそ生じているというものではないのだなあ、ということが、最近だんだん体感できてきた、という話をした。
    • ネットのコミュニティてある程度以上大きくなってくると、なんとなーく 2ch ぽく見えてきて、それがなぜかといえば、往年には要するに「ある程度以上に大きくなると、2ch で物心をつけてそれ以外のコミュニケーションプロトコルを持たないような層が必然的に流入してくるから」というような説明で済んでいたわけなんだけど、そうしたひとたちの性向は、べつに 2ch がそれを規定していたというわけではなくて、単に「ネットのコミュニティは大きくなる過程であのようにならざるをえない」というだけの話かなーという。という意味では、おそらくは 2ch が最初にそのような洗礼を受けたネットコミュニティであったというだけの話なんだろうと、納得できる状況になってきた。
  • 「罠でもなんでもないのに「〜な罠」って書くひと」問題
    • もはや罠でもなんでもない慣用語尾として「〜な罠」と付けるひとが居て、あれは日本語として残念だ、という話をしたのだが、どうもこのへんにはもうちょっと込み入った経緯があるらしい。
    • 「罠」には「〇〇〜な罠」と「〇〇〜だ罠」の二通りの経路があって、前者がおれの認識していた「なんか週刊ファミ通の罠知識が豊富な編集者ネタ(あるあるネタとか「マーフィーの法則」とか、そんなようなもの)が好きなひと、もしくはそのオリジナルをもはや意識するようなこともないインターネットにおけるフォロアーのひとたち」(および、そのネタ的な運用意図が希薄になって単なる慣用語尾として使ってしまっているらへん)なのだが、後者として「〇〇〜だわな」という言い方の誤変換で「〇〇〜だ罠」になってるパターンというのがあるとのこと。で、それらがさらに混じって、「だ罠」の用法で「な罠」とタイプしたり、その逆があったりとややこしいんだとか。いっこ賢くなった。
    • そこいらへんで、「2chガイドライン板で、テンプレを使っておもしろくもなんともない普通の日記を書いてるひとが居た」みたいな話が興味深かった。「罠でもなんでもないのに「〜な罠」って書くひと」と同じ。元来おもしろおかしく活用するためのものだった形式が、もはや意味を失って慣用されているという状況。そういや Otaba に「日記職人」というテンプレート共有機能(っていうほど大したものには見えなかった…)があるんだけど、あれとかもなんか目の付け所としては間違ってないのかもなーと思った覚えがあった。往年の「100 の質問」とか「〇〇バトン」みたいに、どうでもいい作文のためのテンプレート需要が低くない状態。いや「100 の質問」や「バトン」の普及期には「自分語りのエクスキューズ」という大切な役割があったわけなんだけど、「バトン」の SNS 内無限ループみたいな状況を経て、なんかカジュアル化しちゃったのかなーみたいな。

とかなんとか。