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Y さんを囲む会

Y さんを囲む会

先日開催されたという大規模 OFF 会でやさぐれていたという Y さんを囲んで、小規模 OFF 会をやろうというような会合があったので参加した。おもしろかった。以下とりとめない雑考メモ。途中から途中まで。

Y さんはとてもおもしろく頭がよいのだが、大出力のエンジンに時計の歯車が組み合わさったような生き方をしているので、その才能がどう活きるのかおれにはよくわからないがとにかくすごいぜという世界の住人の一人だ。人間としては不器用な部類に入って、対人関係を基本一対一の並列で処理している。彼は実際に狭い人間関係においては(これはけっこうすごいことだが)それで成立させているように見える。しかし物理的な限界というやつがあるので、たとえば一万人と一対一になることができる人類は居ない(聖徳太子でも十人が限度だ)、にもかかわらず Y さんは万人とでも一対一になろうとするひとだ、という不屈さがすごい。鋭さと脆さが両立すれば必ず折れるのだが、Y さんはボロボロになっても折れていない。ほとんど不思議ですらある。そこいらへんのボンクラとは胸に抱える恒星質量が違うというところか。アントニオ猪木氏的な態度の実践だ。「私は誰の挑戦でも受ける」。万人と相対そうとしている。…というようなひとが下手に大規模 OFF に参加してしまうと失敗するよね普通。彼ほど処理能力が高くなくとも、人のかたまりを「場」とか曖昧な集団として直列で処理できるひとなら、大規模 OFF をそれなりの体感でやり過ごすこともできるんだけろうけど。いはゆる「空気」関連の諸問題というか。

暮らし上のそれと違ってインターネット上のコミュニケーションは、システムが規定するところが大きくかつ明確なので、そのシステム上で仮築されている場や空気というのは、我々が本来知るところのそれら、そのものではない(語弊はあるが「ゲーム的であるがゆえにルール的に扱いやすすぎ」だ)。ちょっと前までは「そんなものは実際にはない、単にそれが暮らしのうえでは当たり前にあるから、ネットにおけるコミュニケーションにおいてもそのように扱えるのだろうという我々の錯覚が、その錯覚を共有する者同士の間でのみ機能しているのに過ぎない」と言い得たのだが、情報網のひろがりと細密化が行き渡る過程において生じたトレンドのひとつである半同期的コミュニケーション的ななにか(ミニブログとかニコニコ動画とか?)にまでなってくると、そろそろ空気的なものとか場的なものは幻想のレベルではなくなってきたかなという気分にもなってくる、まだ本番ではないにせよ。すくなくとも「そういうつもりになって活動している層」が十分な厚みを今後形成してくる以上は、そうでない側もいずれ対応を迫られることになる。

…というようなあたりを踏まえたうえでも、やはりまだまだインターネットには空気はないも同然という筋合いも十分生きてるので、Y さんのようなタイプの個性にとっても十分活きやすい場ではあるはずだ。曖昧な群体であっても、まだやはりバラバラの個人あるいは個体であって、理屈のうえでは膨大な一対一の並列処理で処理することができる。そこに Permalink があるかぎりー、みたいな話なのかもしれない。そこに Permalink がないならば、あるいは Permalink で捉える意味が消失してしまえば、ネットもまた大規模 OFF 的に対処する以外なくなってしまうのだろうか。いやまあ大規模 OFF 会はその内部に無数の小規模 OFF 会的空間を内包してもいるわけだから、うまい具合にそのうちどこかひとつのネットに引っかかってから枝葉を伸ばしていけばいいわけなんだけども(←OFF 会におけるホーム&アウェー問題。事前に手ごろなホームを確保しておいてから参加すればどんな会合でも大概は過ごしやすくできるものだが、それを確保し損なうとどんなゆるい会合でもアウェーゲームとなり精神的にきつい)。既にそれくらいの話にはなっているか。そしてそのうえで、初期段階のダイブでどこのネットにも引っかかりえない可能性の問題か。