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太陽を盗んだ男

浦和 | 070826

ちょっと前に見た映画 DVD(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070601#p3)の感想を書いてなかったので改めて書きたいけど、なんか最近あたま使うと疲れるので感想用のメモ書きを羅列してお茶を濁すぜシリーズ。

  • 基本的には「ゴジラ」とかと同じような流れの「原爆映画」カテゴリとして見ているのだが、今回はもうちょっと別の筋合いから見てみようと思った。具体的に連想したタイトルはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」と漫画「DEATH NOTE」。「当世の若者の時代の気分」的ななにか、「反則気味の切り札を手にした主人公」つながり、など。
  • 本作の「なんでもできる力を手に入れたが、やりたいことがない」という意識は、時代のズレているおれにも身体感覚としてよくわかる。対して「新世界の神になる」と言い切る「DEATH NOTE」のキラの意識は、漫画っぽいなーと思う(事実漫画だからそこは別にアレだがっていうか、連載雑誌を考えると「海賊王におれはなる!」とか叫んでる漫画の横で「新世界の神に…!」とか言っているわけだから、むしろずいぶん控え目な態度とも考えられる)。それぞれの作品が、それぞれの時代感覚を代表しているとは思わない。「太陽を盗んだ男」は 1979 年公開だが、同時期には漫画「野望の王国」(1977-1982)だって連載されている。どんな時代にも、やりたいことがないやつも居れば、野望を実現させたいやつも居るってことだろう。
  • どうしようもない泥臭さと同時に突出したキレ味を感じる。へんなかんじ。かといって風忍「地上最強の男 竜」を読むときのようなエスニック感でもない。地続きだ。新宿の街並みの、変わりようと変わらなさのことなども思う。あまり関係ないが、この「羞恥心なく東京名所を撮りまくる感受性」みたいなものは、79 年なりの態度なのかなあとも思う。そこいらへんで度し難いなと常々思うのは 90 年代における CLAMP のド直球な東京タワーフィーチャーっぷりだが余談。
  • 本作はだいたい三部構成に区分できると思う、つまり第一部「原爆ができるまで」第二部「デパート立てこもり」第三部「原爆奪還以降」だ。第一部はとにかく原爆製造のディテールを追及、第二部は作った原爆を元手に事件を展開してゆく、そして第三部からは無茶苦茶。第一部と第二部は丁寧に伏線が張られ回収されていくかんじだけど、第三部はなー、ウヒョローってかんじだ、犯人側も警察側も、お互いに。警視庁にターザンで乗り込むキューバンの「戻りのロープはどこに結んであったんだ」問題とか、あの高さから落下しても銃弾何発撃ちこまれても死なない山下警部不死身問題とか。そのへんの、ガラガラと崩れる橋を疾走して物語りを追及していくかんじとかでも、ミョーにエヴァンゲリオンを連想しなくもない(いい意味で)。けどよくよく考えてみると、第一部や第二部だって十分無茶苦茶やってるんである。プルトニウム強奪シーンとか。ただ、細かい描写や伏線が、それをあまり常軌を逸した展開に感じさせないだけで。
  • ゼロの役割は現代ではネットとかが担うところだろう。ラジオのリスナーは 2ch とかその文化圏のひとたち。第二部の展開は「DEATH NOTE」的(逆だ)。本作には敵側に(カギカッコつきの)天才属性キャラが居ないので、天才同士の対決色などはないけど。札束バラまきなどはわかりやすいオマージュだ。そのへんの、ラジオを現代にもってくるとどうなるかというあたりも、DEATH NOTE で試行されている。
  • ジュリーかっこいいよジュリー。キムタクもドラマじゃなく映画の時代に間に合っていたら、この境地に到達していたのかな。そういう話じゃないかな。妖怪ハンターも見たくなったよよ。
  • 山下警部の、ほとんど偶像に近いベタさは漫画的だが、しかしその迫力に虚ろさはなく、笑ってしまうのだが、しかし抵抗することができない。さすがの役者力というかんじかなー。彼がキューバンと同じ土俵に立ったとき、あそこまで常軌を逸することができるというのは、なにか現実の弾力性みたいなものを感じるな。
  • ゼロのウザさといったらない。その態度における必死さ。耐えがたい。激痛。時代差のせいだな。声音、目線の外し方、カメラに対する角度、アゴの位置、作った表情、全部。ほかのキャラクタから突出してゼロだけが時代に特化している。そのズレをほとんど SF 的にすら感じる。こいつがこちら側を理解する日が来るとしても、こちらが向こう側を理解する日は決してこない。ただ受け容れるしかない。過去と向き合うというのはそういうことだな。

あと、この映画見ているといつも「キューバンは本当は、どの時点で死んでるんだろう…」と考える。第三部の無茶苦茶っぷりは、いくらなんでも現実から乖離している。だから、第二部までで現実は終わって、残りはキューバンの妄想だという考え方は自然にできる。本当には山下警部もそこまで超人ではなく、キューバンの脳内だからこそあそこまで手ごわいのかもしれない。それならそもそもプルトニウムを抱いて寝ているときに見た夢かもしれない。あるいはプルトニウムを盗むのに失敗して本物のキューバンは死んでしまったのかもしれない。あるいは、最初からキューバンが、普通に理科の先生をしながら退屈しのぎに見た夢かもしれない。そのどれでもいい。おもしろさは変わらない。