現実の描画エンジンはすごいぜまたはすごくなかったとしてもおれにはそれを原理的に検証できないぜゲーム
「現実の描画エンジンはすごいぜまたはすごくなかったとしてもおれにはそれを原理的に検証できないぜゲーム」のあそびかた。
- 合わせ鏡を作る。
- 頭をつっこんだり手をヒラヒラさせたりして像が無限増殖しているありさまを楽しむ。
- 「さすが現実、こんだけリフレクションしてても全然処理落ちしないぜ」と感動する。
- 「いや、現実のタイムラインに乗っかっているおれの視点では、その全体が処理落ちしているのかしていないのかは原理的に体感できないぜ」と思いなおす。
- 映画フィルムの中の住人は、自分が住んでいる世界の再生速度を観測できない。彼にとっての時間とはフィルムのコマ割りがすべてであるから、その再生順が正しい限りおいて、早送りされても、スロー再生されても、一時停止されていても、外部からの操作は一切窺い知れない。
- 「あるいは現実が負荷に対してコマ落ちで対処する描画エンジンだったなら、その上にのっかっているおれにでも負荷を体感できたのかもしれんな」と考える。
- コマが飛んだら、それは世界住人にとって時間跳躍と体感されるはずである。それは原理的に体感可能の異常だ。
- それでいうと、あれかこのへんの屁理屈を利用したタイムマシンとか発明するとおもしろいかもわからんな。
- そのことから逆説的に、やはり現実は(仮にパワー不足になる状況があるとしても)処理落ちベースの処理を行うエンジンなのだろうと推測する。
- 仮に適当に負荷をかければ処理落ちするようになっていた場合、世界は世界外部へのレスポンスへの考慮を優先しておらず、その内部に向けて完全を期するようデザインされているともいえる。
最近行ってないのでいまもできるかどうか知らんが、池袋西口の福しんは店舗内がデカい合わせ鏡になってるのでこのてのあそびがやりやすい(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050604#p3)。あと、似たようなゲームの 20 世紀版は「バスや電車に乗ってるとき、横を流れる景色を何重スクロールで処理するのが最適か厳しく検討するぜゲーム」だ。横方向へのラスタスクロールの目が細かいなら BG 面をあまり使わずに凝った処理もできそうだなとかそういう。