NO MUSIC LIFE
「○○がないと死ぬ(≒生きている意味(or 価値)がない、そんな時間は人生ではない)」というのはこれ以上ないくらいわかりやすい挑発アジなので、それが挑発であると理解できないひとはまず居ないし(←容易に検証可能だ。その○○を生活から省いてみて実際死んだら事実、案外死ななかったら挑発)、それゆえ JARO に愚痴られる心配もない名コピーだが、しかしまあ背伸びキッズでありたいお年頃には喜び勇んで無自覚なまま動員されてゆくひとたちだってまた居るだろう、ただしなぜそれが無自覚であるかという理由を辿ればシーン側からの説明不足というより自己承認を含む内側からの認識努力の不足であると結論付けられるわけなので、やはりコピーに負わせられる責任は軽い。けどまあ挑発的に生き続けることができるほど強い人間はそれほど居ないし、うまく折り合いをつけて三方円満に綺麗な引き際でその時期を終えることのできるひともまた少ない(そもそも、そういう挑発に一枚噛みたがるような時期の個人の大抵は、シーンに対する一消費者としての責任感(≒オタ的な過剰適応というのか?)が甚だ希薄だ)。大概はフェードアウトになる。これは要するに、おれが気に留めている事例でいうと、
「沢渡真琴は我が命、我が全て!!永遠の愛を誓う漢・狗法使い、ここにあり!!!!」
とまで発言した狗法使い氏(http://web.archive.org/web/20021228044507/http://www6.plala.or.jp/brigade/erel/kuhou.htm)にとって、あの時間は笑って話せる思い出だろうか、それともまだ回顧の難しい暗部だろうか、それとも、彼はいまだ永遠の世界に生きているだろうか、というようなアレに近い。けどもまあ NO MUSIC オタごとき有象無象には狗法使い氏ほどの因業は期待できまいな。
で、おれの話でいうと、最近どうも NO MUSIC なかんじでいかん。具体的には、ただ単に音楽のためだけに時間を使っているという状態があまりない。おれの場合音楽に対する認識の仕方が大雑把に二つあって、つまり「演奏に参加する音楽←→聴く音楽」と「実用音楽←→無用音楽」で、たぶん音楽的に最上なのは「演奏に参加する音楽」で、そこでは実用音楽であるか無用音楽であるかとかはあまり意味を持たない。チェロ弾いてるときとかだな。でもそれ長らくやってないし。で、じゃあ聴くほうの音楽という話になると、「実用音楽←→無用音楽」が重要になってくる。これがなにかというと、つまりあれだ、通勤中だとか作業中だとかに聴く音楽は、無為の時間のひまつぶしだったり、集中力を高めたり精神状態への作用を期待したりとかそういうかんじでわりと実用だと思っていて、そして無用というのが「ただ単に音楽のためだけに時間を使っているという状態」のこと。特に深く考えたわけではない単純な認識として、音楽については実用と無用でいえば無用のほうが上等だと思っているので、そのうちの後者が乏しくなっている現状は音楽的にあまりいい状態ではないよなと思う。もうちょっと書き方を換えると、実用音楽は「ほかの音を遮蔽するために鳴らす音楽」であり貧しく、無用音楽は「ほかの音とか関係なく、音楽自体に聴き入るために鳴らす音楽」であるから豊かであるというかんじになるか。ジャンルとかそういうのはなんであろうと構わない。ゲームサントラでもアニソンでもエロゲーソングでもなんでもいい。最近でいうと延々中田ヤスタカ氏作品を聴いているわけだけども、それ大概通勤中だったりとかするしな。たまに聴くような電波ソングも作業中のヘビーローテーションに有効という話で、これもおれの中では実用。そこで考えるのが「ゲーム中の BGM として聴いている音楽」ということになり、初代 XBOX で Forza を遊ぶと当時設定したカスタムサウンドトラックが残っているので小島真由美とか聴いてるわけなんだけど、あれは実用なのかなー無用なのかなーというあたりだ、が、どうかな。運転ゲームプレイ時間をより快適に、という意味では実用だが、ゲーム自体が無用ではありつつ、というか音楽は音楽でやはり楽しんでいるともいえるわけだし…半分半分かな。