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人生における錯視

つらつらと書きかけ。

  • 90 年代中盤、つまり物心もある程度高度化し、メタのことへの意識も漠然と備わって以降、対洗脳のことは常に意識していたような気がする。
  • 当時メディアを賑わせた、一連のオウム真理教騒動から学んだ単純な教訓は「洗脳されたらヤバい」ということだった。
  • 気がついてみれば世の中は洗脳に満ちていた。したがって、そこに生まれ育ったおれはすでになにかに洗脳されていると判断できる(そのような社会に教育された人間が、洗脳の申し子でないはずがないのだ)。つまりおれもまたそのヤバさの一端を担っている。立ち位置が極端にまで先鋭化すれば、遮断され、排除される。そういう仕組み自体には、おれが自分で生まれることを選んだような存在でなく、親から産まれてしまった存在である以上、すでに乗っかっているし、それが現代を生きるということであるから、乗りつづけるほかない。生まれ方と物心のつき方に責任は持てない。持てないが、取るしかない(人間が自分の視点を裏切る試みは必ず失敗する)。
  • おれの性向的にはたぶん中庸であるのがよく、漠然と中庸であることと政治的でないことは違うということもわかりつつ、しかし(その必要に迫られるほど切迫した人生を送ってこなかったこともあり)結局基本を省みることがなかったので、おれは中庸であることと政治的でないことの違いもよくわからないまま、判断の基準を発展的に固着させることなく、単に「無害であること」に向けて落ち着いていったように思う。それはほとんど意思というより自動的な流れだった。退却と言ってもよかったろう。
  • 無害な洗脳もまた数多くあった。オタ界隈は、まさしく「無害な洗脳」の集積体のように感じられた(より正確にいえばそれは「無害化への洗脳」であって、社会の中での個人に対してはある意味で有害に働く)。それはまさに「役に立たない受験勉強」とでもいうような、おれのオタ観とも合致する方向性だった。
  • 一方で、大学に入ってから見ることになった(サークル活動等における)合コンや(新卒採用へ向けての)就職活動の場では「私には洗脳される準備があります」と示すことが善とされているように感じられ、そこに拭いがたい違和感があった。これは大雑把に、自発的に空気へ同調してゆく態度は善であり、そして空気への同調を強制する行為として「悪の洗脳」がある、というような認識だろうか。その表裏が、ひどく厄介に感じられた。そしてまた、ナイーヴには「相手を洗脳する責任の回避」というオタ的な態度とも合致して、一層おれの基調を凝り固めていったかもしれない。
  • それはそういうものとして割り切るのがソツのなさなのだったのだろうなといまなら思えるが、結局のところおれはまともに就職活動する道を選ばなかったし、また合コン文化に馴染むこともなかった。年齢的な旬も過ぎたことだし、おれは今後共そのような場とは無縁のまま死ぬことになるだろうと思うが、似たような通過儀礼なら将来にも待ち受けているのかもしれず、態度の検証は継続していったほうがいいような気もする。