「人生をゲームに喩えると…」問題
関連トピックっぽいものをざっと飛ばし読んでの妄想。ほとんど関係なくなってきた。まあいい。
- 人生をゲームに喩えるとしたら、ゲームは多様なのだから、いろんな解釈や視点がありうるはずなのだが、なぜか RPG か ADV の話ばかりで、なんか(特定)人文系のひとの指す「ゲーム」が「≒エロゲー」であることに通じる状況。やけに偏ったゲーム観だなというか。もはや誰しも偏っていること自体は仕方ないのだが(というか誰一人として標準的な観点に立てなくなって久しい)、似たような偏りが集中しているのは興味深いようでもあり。要するに、特定のクラスタのひとたちの間でしか流通してないってことだなこの話題は。
- というか RPG にせよ ADV にせよ、それらはもとから人間(キャラクタ)の人生(の一部)のたとえ話みたいなものなわけだから、そこに当てはめてみたところで比喩になってない。なんというか、「このコーヒーの味を、コーヒー飴の味に喩えると…」とか言ってるひとが居るみたいな違和感。
- それでいうと、たとえばサルまんの「レディコミはテトリスだ」とかいっていたようなアレは、(キャラクタの)人生(の一場面)をゲームにうまく喩えてある例かなと思える。
- 見下ろし型の RPG に毒されているのか?エロゲーとかはむしろ大概が一人称視点であって、そこに構造的なメタはないんだけど(「その映像がモニタに映っているのをプレイヤが眺める」まで含めると、どのみちメタってことになるけど)。
- ドラクエは通常画面がメタで戦闘画面はベタってかんじか?それでいけばウルティマがメタ、Wiz はギャルゲー同様一人称基本でベタと(ただし Wiz の場合画面のこちら側には自分だけでなく複数人のパーティが居ることが多いわけなので、そこがメタ要素といえそう)。一人称視点がダンジョンマスターまでいくと FPS 前史ってかんじになってきて、そして FPS 以降はいわずもがな。まあ「なぜモニタの向こうのおれは常時真正面をサイティングしながら歩いてるんだ」という疑念は付きまとうものの。
- 「日本でTPSのほうが受け入れられるのは、日本がメタ視するのが大好きだから」とか適当に煽るのが Web2.0 大勝利マーケターの仕事じゃないですかね。
- FPS のベタな 3D 酔いか、TPS のメタな自己陶酔か、というイヤな二択はおもしろいかもわからんな。
- その点で、最近の AI による(シングル)チームプレイ TPS は、Wiz にあったメタ視点の問題を正しく解消して前進している「西欧における RPG」であるなと改めて感心した。たぶんいまどき殊更感心すべきポイントではないんだけどまあ。おれが「西欧における FPS の役割は、マーケット的な話だけでなくゲームプレイ体験としての意義においても、日本における RPG と置き換えられる」てのを頭じゃなく指で納得したのって Halo2 のときだったので(「たぶん今ガイジンが FF を作ったら、こうなるんだろう」と思った)、認識がだいぶ遅れている。
- このフレームでの人生ゲームのバランシングの是非は、単に「マルチプレイだとシングルプレイのようにはいかない」という事実をどう受け止めるかというだけで判定されているっぽいな。要するに「マルチプレイしかないので苦労している、シングルプレイモードさえあればおれだって勇者なのに!」というバックラッシュ?マルチプレイだからこそおもしろい、という筋合いは普通にポジティブすぎるので、このような場では野暮というかつならなくて挙がりにくいだろう。
- 関連して、「現実世界は双方向エロゲーだから。向こう側にも選択肢が発生している」という指摘(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060722#p4)は興味深かったなと思った。たぶんこういうかんじで状況を絞り込んでいけば、浮かび上がるべき仕様を妄想して楽しめるんだけども。
なんとなくこのへんでやめ。