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世紀末のプロ野球

ものすごくおもしろいと言ってよかった。おれは野球にあまり関心がなくプロ野球には興味がなくわりかし意識して可能な範囲で見るよう心がけている野球といえば夏の高校野球くらいのものという人間だが、それでも読んでて非常によくわかる。なぜプロ野球高校野球などと違って素晴らしいのか、ということがだ。馬鹿にも興味ないひとにでもプロ野球のおもしろさを伝えようとする熱意だろうか。あたまいいんだなつまりこれを書いてるひとが。書かれている当時に現役だった選手がいまは監督やってたり解説者やってたりするあたりは隔世感だけども、どうなんだろうなーいまと当時のプロ野球てどっちがおもしろかったんだろうかな。どっちも見てないのでわからん。けど本に描かれてあるプロ野球は、すごくおもしろそうだ。

とにかくすばらしいので、以下本の一部を抜粋する。

  • 一九八二年度「三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ」より抜粋

そりゃあ王貞治のホームランが描く放物線はそれなりに官能的であったし、内野手の動きを読んだ上で量産される張本のヒットも見事なものではあった。しかし、王も張本も所詮は職人であってプロではない。プロ野球の真髄は断じて職人芸に還元されたりはしない。安打にも本塁打にも方法が存在するからである。スリーベースヒットの魅力は、そこにいかなる方法もないという点に存している。

ホームランもシングルヒットも、職業的に熟達すれば誰でもある程度は打てる。二塁打にしてもそうである。谷沢とか篠塚とかがつまらないのは、職業的に二塁打に安住しているからだ。プロの素晴らしさは、方法が存在しないにもかかわらず三塁打を打ってしまう人間が間違いなく存在する点にある。

三塁打は、今日のプロ野球にあっては一つの不条理といってよい。球場の狭さ、ならびにフェンスの低さが、スリーベースヒットを不断に抑圧しているからである。長嶋茂雄は、その不条理さにたえずいどみ続けたが故に天才なのだ。ホームランを一シーズン三十本以上打てる選手でも、スリーベースヒットとなるとほんの数本しか打てない。だからこれは、三者連続三振よりも困難なことなのだ。しかも、松本とか高橋とかのように、足が早ければこれが打てるというわけのものでもない。打球の飛距離とも脚力とも違う何かしら本能的な力の瞬発的な発露のみがこれを可能にする。しかも三塁打は、ほんの十秒ほどのうちに、九人の野手にもっとも複雑な運動を実現させる。ボールの中継とカバーのために、あらゆる選手が走りまわらねばならない。その瞬間的な美しさが唐突に演じられてしまうことのためにプロ野球は存在しているのだ。

  • 一九八二年度「プロ野球選手の実力とは数字を超えて突出する過程の美しさだ」より抜粋

ところが大洋ラムになると、打率の低さとは無関係に実力を発揮する。とりわけ一塁手としての彼の身振りは、守備の巧拙などは遥かに超えた大胆な繊細さで、過程そのものの美しさを演じている。捕球動作から投球動作に移る瞬間に彼が示す、ボールそのものに対するこまやかないたわりの心を見よ。あるいは、相手に二塁打を打たれたとき、一塁を駈けぬける走者の背後にはりつくようにして走り、無言で二塁ベース脇に立って戦局の推移を見まもる瞬間の寡黙な高貴さを見よ。日本のベースボールが一度として見せたことのない過程の美しさがそこに描き出されている。しかもそれは、他の野手にまで感染し、田代のフットワークをかつてなく軽やかなものにさえした。

だが、過程の美しさを感じうる選手といえば、やはりロイ・ホワイトをおいてほかにいまい。空振りしようが肩が衰えようが、実力という点で彼は両リーグ一である。今シーズンは、レフトのフェンスぎわでの好プレーを何度も演じているが、彼にとってそんなことは名誉でもなんでもなかろう。徹底して孤独なプレーヤーでありながらも的確に戦局を読み、ここという瞬間には難球を好捕し、相手に深いダメージを与える一打を渋くはじき返す。しかも、それが結果として登録されないところにホワイトの偉大さがある。

一昨年の阪神戦で、打席に王が立っているときに二塁を盗んだ彼が、送球がそれてレフト前にころがる隙に三塁コーチの制止をふり切って一気にホームまで駈けぬけてしまったときのあの疾走ぶりには、味方までもが呆気にとられたものだ。三塁コーチの土井は相手にさとられまいとして手を回さなかったと後で告白していたが、それは嘘に違いない。すべてはあっという間の出来事だったのだ。

あれこそ、日本プロ野球史上もっとも美しく突出した過程ではなかったか。しかもホワイトが得たものは、盗塁一にすぎない。

  • 一九八二年度「権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合を面白くする」より抜粋

野手の送球には二種類の異質の殺意がこめられている。走者の義務としての走塁を封ずる送球の殺意は日常的で安全なものであり、権利としての走塁をはばむ送球の殺意は、非日常的な危険性を帯びている。

内野ゴロの一塁送球は、かりに打球がヒット性のものであろうと、義務をはばむことの日常性の範囲内におさまっている。だが外野手のバックホームは、殺人のみが目的の非日常的危険性をはらんでいなければならぬ。前者に要求されるのはたかだか迅速さと正確さにすぎず、殺人は結果として機械的に達成される。間一髪アウトの場合でもそうである。

だがボールが目指す塁上に達しただけでは殺人が成就せず、捕球した野手と走者との激突が演じられなければならない後者の場合、送球にこめられた殺意がすべてを決定する。面白い試合とは、権利としての走塁を阻止する殺意にみちたボールがより多く投げられる試合にほかならぬ。そして真の野球センスは、殺意と権利行使とが交錯する一瞬に露呈される。

盗塁の面白さは、それがあくまで義務ではなく権利の行使だからである。ところがこれも権利の行使であるはずの外野フライ=三塁タッチアップが面白くないのは、外野手の送球に殺意が不足しているからである。

うっかり読んでると洗脳されそうだ。いや実際ゲーオタとして読むと同意できる点しかない。過程重要だよなーゲームはゲームプレイ命なのだし。ドラマだ物語だうるせえやつはどこにでも居るもんだ FF ドラクエだのと退屈な議論を二十一世紀になってもまだやってるひととか(マメ知識だが、このてのひとは「ドラクエと FF って…」とか直球で水を向けて判定すると例の一様な主張が始まって退屈なので「洋ゲーって大味ですよねー」とか話を振って同意してくるかどうかで判定するのがラクだ)。まぁ Kanon を遊んでないと人生大損主義者とか Air で感動できないと心死亡主義者とかそこいらへんは他愛ないのでいいとして。マーケットシェアでゲームを語る人々問題とかもこの本読むと、プロ野球においては遅くとも 20 年以上前に深刻化していたということが伺える。どうしょうもない。