ゲーム系オタオタジャーゴン
今年はじめあたりに一端整理しようとメモしはじめたのだが、書きながら面倒くさくなったので長らく放置していた。主におれが勝手にそう呼んでいるというだけの用語で、一般性はない。
- ゲームマッチョイズム
- ゲーム開発マッチョイズムとも。大雑把にいえば「マシンスペックの向上と共にゲーム性は進化しうる」とする考え方。3DO/SS/PS に代表される 32bit 世代機の時代に生まれたが、花開いたのはその次の世代(DC/PS2)以降か。最新のハードウェア性能によって支持された最新のソフトウェア技術がゲームの枠を拡大してゆくというビジョン。スケールの拡大、ディテールの掘り下げ。
- 「高性能は善である」「大は小を兼ねる」「とにかく最新型」「ハイデフへいらっしゃい」
- 現行の家庭用据え置き機を戦艦としてみれば、第二次大戦で旧式化した大艦巨砲主義になぞらえることができる(携帯機のマトになるだけ)。これを避けるため、新世代機はそれぞれネットワーク機能やコミュニティ基盤としての性能を付加し、戦艦からイージス艦または空母のイメージへと脱却を図っているともいえる。
- 新世代機に結果的に掛かってくる役割は、どちらかといえばゲーム側のイノベーションというより家庭 AV 環境の次世代化への対応という意味合いが大きく、所要コストがかなり高い。これに比べて携帯機の場合、ハードを買うだけでネットワークを除く環境一式が手に入るわけで(「PSP を買うことではじめて(14 インチ 4:3 ブラウン管以外の)16:9 のゲームプレイ環境を手に入れた層」とか)、その点でも携帯機優位の状況が当分は続くと予想される。
- 現在国内にこの考え方の中核になるようなタイトル・企業は存在しないため、十年来の古参オタが余力で支持してるだけという状態(おれが XBOX 360 を発売日に買ったのには、ようするにかつてこのビジョンによる成果を享受した者としての責任(納税)感みたいなものもあるわけだ)。また日本の場合セガ社によるゲーム「シェンムー」の記録的大コケや、スクウェア社による映画「ファイナルファンタジー」の記録的大コケが、開発マッチョイズム減退トピックとして挙げられるかも。北米市場においては、とりあえず現行新世代機まではこの考え方で維持されると思われる。
- ゲーム開発マッチョイズムとも。大雑把にいえば「マシンスペックの向上と共にゲーム性は進化しうる」とする考え方。3DO/SS/PS に代表される 32bit 世代機の時代に生まれたが、花開いたのはその次の世代(DC/PS2)以降か。最新のハードウェア性能によって支持された最新のソフトウェア技術がゲームの枠を拡大してゆくというビジョン。スケールの拡大、ディテールの掘り下げ。
- ゲームナショナリズム
- できる限り国産のゲーム及びゲーム機を支持し、また国産ゲームで満足すべきであるとする考え方。(エロゲーの家庭用移植及び一部 STG タイトルのリリースを除いて)DC が事実上終了し、XBOX が参入してくる(プラットフォームホルダの一角としてセガ社と MS 社が交代した)タイミングで出てきた。てことは 2001 年〜 2002 年頃か。
- 家庭用ゲーにおいて、当時ユーザの目から見ても緩やかな下り坂に入りはじめていた国産ゲームのリリース動向と、当時まさに登り調子に差し掛かっていた洋ゲー群とを対比させ、このまま唯々諾々と洋ゲーの魅力に染まってしまい国産ゲーを省みなくなってもよいのか的な危惧を背景としていた。
- いまでも稀にこれに類する主張を見かけるが、問題意識や提起の仕方などは当時から随分変わっており(ある意味マジなひとたちが混じり始めてもいて→当時こういった意識は「洋ゲーもわりと好きなオタが自分の問題として」提示していたが、現在はどちらかといえば「和ゲー一徹のオタが問題を外部化して」提示しているかんじ)、もはや軽々しくナショナリズムの問題とはいえなくなっている。
- PC ゲームマッチョイズム
- ゲームマキャベリズム
- 支持する陣営のマーケットシェアが最大となる未来のためアジテーション材を提供し続けるゲーム系サイトのありかた。ある種の理想、美意識。一般的なゲーオタによるゲーム系サイトの場合、己の因業によって駆動されることを自己目的化しており、戦術レベルの主義主張を散発的に繰り返すだけで一貫性を持たない。対してゲームマキャベリズムによるゲーム系サイト運営はその戦略・政略レベルでの筋道が明瞭に貫かれている。この点でゲームマキャベリズム系のサイトは凡百のゲーオタサイトと一線も二線も画する。目的はただひとつであり、手段はこれを選ばない。派手な仕掛けが効果的であれば躊躇わず行い、地味な営業も必要と認められる限り絶やさない。最小コストで最大成果が基本だが、ここぞというタイミングには一気に畳み掛ける。自説の補強に役立つあらゆる言説を利用し、同時に己以外の一切を信用せず全方位に戦闘準備を怠らない。戦略に沿った振る舞いはすべてにおいて無駄がない。ゲームマキャベリズムにおいて「書かれないこと」にも意味があるのは前提レベルの問題である。
- ようするになんというか、ふつうは「○○がおもしろい」と書くことで誰かに「○○はおもしろいんだろうなあ」と伝えたい、という直球幻想への信頼(という甘さ)が垣間見えるわけなんだけど、ゲームマキャベリズムにはそういう甘さがない(そもそもマキャベリストとしての界面でいえば「○○がおもしろいかどうか」は手段でしかない)。自分の主張が結果的にどれくらいの人数のどのように伝わり、どう受容され、最終的にどういうふうにムードに影響するのか、ということを、得るべき成果から逆算して書かれるのがゲームマキャベリズムに則ったエントリだ。「〜って言いたいだけ」のボンクラとは違う。主張と成果をマジでリンクさせることを考えているのだ。成果は心のありようとかでなく、実数として反映されるべきもの。そういう意思のもとで見たとき、最終的に最大多数に「○○はおもしろいんだろうなあ」と思わせるための最上の方法が「○○がおもしろい」と書かれたエントリであるとは限らない。「ぼくは○○を普及させたいです」と書くことで実際に○○普及の一助にはなるかもしれないが、それよりも効果的な方法がほかにないと判断したときにしか、ゲームマキャベリストはそれを選ばない。
- あらゆる情報を収集し、フラットに分析し、そこに自分の意思を加えて、己の世界観に基づいて世界のありようを再配置し、力ある物語としてエントリに練り上げて(既成事実化して)ゆく。不断の努力でこれを実行する。それはまさしく世界観闘争である。自己と世界は合わせ鏡であり、完全な自己が実現されるとすればここにしかない、世界と響きあいたいという鉄の意志である。
- (そういうサイトを運営したいと思うひとがどれくらい居るかはともかくとして)このレベルに到達しているサイトは、おそらく国内ではただひとつしか存在しない。
- ゲーム懐古主義
- 主に8bit 世代(広義では 16bit 世代機も含み、また「CD-ROM ドライブ以前 / 以降」という基準を含むか含まないかで PC-Engine に対するスタンスが変わる)のゲームこそ一番輝いていたと信じて疑わない。映像や音楽の大規模・高詳細度化や入出力機器の発展によるゲーム環境の大規模化を否定し、ゲーマーは「本来のゲーム」に立ち返るべきであるという考え方。最新ソフトに対してはまず否定から入る。ゲームマッチョイズムの対極。
- 「最近のゲームはムービーだけが豪華」「続編ばかりですね」
- これ、「おっさんがふるきよき時代を懐古してる」のと「若い世代が昔を再発見している」のとでは全然アングルが違うのでそこは分けるべき。
- この層はゲームマッチョイズム勢とは対立しなくていいと思っているんだけど(ノスタル勢は既存のゲームで満足できてるひとで、マッチョ勢は「むかしできなかった機能性能によってはじめて実現するゲームルール」をも求めているだけで、ノスタル勢の好きなゲームを否定してない→「あれはあれでおもしろかった、しかしもっと我々の知らないおもしろいゲームが存在するかもしれない」)、なんか微妙にソリが合わないもの確か。
- 主に8bit 世代(広義では 16bit 世代機も含み、また「CD-ROM ドライブ以前 / 以降」という基準を含むか含まないかで PC-Engine に対するスタンスが変わる)のゲームこそ一番輝いていたと信じて疑わない。映像や音楽の大規模・高詳細度化や入出力機器の発展によるゲーム環境の大規模化を否定し、ゲーマーは「本来のゲーム」に立ち返るべきであるという考え方。最新ソフトに対してはまず否定から入る。ゲームマッチョイズムの対極。
- アーケード至上主義
- アーケードゲームこそがビデオゲームの中心であるという考え方。コンシューマに移植されても、それを家でプレイするのは邪道と考え、家庭用版からアーケードに入ってきたプレイヤーを低く見る傾向。アーケードビデオゲーム自体が盛り下がり、コンシューマゲームに対する技術的優位性を失った昨今では絶滅危惧種。家庭にネットワーク対戦環境が普及してきたことも一因か。
- あのバーチャ以降の「求道的な雰囲気」をうまく表現できる○○イズムをおもいつければ、うまく説明できる気がする。
- 指摘:『ノスタル勢は過去を美化して、過去の興奮の再現を現在に求めているから、既存のゲームで満足はできてないんじゃないかなと思ってます。「最近のマンガは〜」勢と同じなんだけど。あと「求道的な雰囲気」はバーチャ以降というよりはアーケードにおける古典的価値観の延長じゃないかなとも。「ワンコインクリア」や、べーマガ〜ゲーメストと常に存在したハイスコアランキングの価値から。』
- おれのレス: 『あーなるほど。往年のシーンの興奮を、システム側の負担で再現すべきであるっていうかしてくれ、ってかんじに見えるかなあ>ノスタル勢。昔のゲームがおもしろかったのは、おまえら全員が若くて馬鹿で貧乏だったからだよという部分を引き受けてくれる先を探しているかんじ(いまさら若くも馬鹿にも貧乏にもなれない彼らに安息の場所を!→たぶんそれ Wii じゃね?不良息子の帰宅ってかんじで)。あと全一クラスのシューターと大会上位常連の格ゲーマーって微妙にノリが違うかなあとおもって「バーチャ以降」と書いてました。シングルプレイで記録主義って陸上競技っぽくて、格ゲーはわりと喧嘩番長なところがあるかなとか。ないですかね。』
- アーケードゲームこそがビデオゲームの中心であるという考え方。コンシューマに移植されても、それを家でプレイするのは邪道と考え、家庭用版からアーケードに入ってきたプレイヤーを低く見る傾向。アーケードビデオゲーム自体が盛り下がり、コンシューマゲームに対する技術的優位性を失った昨今では絶滅危惧種。家庭にネットワーク対戦環境が普及してきたことも一因か。
- アーケード維新主義
- ゲーセンのカード筐体にありうる「コンシューマ / PC 等にはない体験」の可能性を支持し、そこを盛り立てていくことで新しいアーケードシーンを模索していくべきであるとする考え方。
- 独身 20 〜 30 台サラリーマン層中心?
- 「とにかく一回三国志大戦やってみろ」「営業メール来ちゃったよー」
- 任天堂無謬主義
- ゲームナショナリズム急進派のひとつ。
- 「任天堂に失策はない」
- 現在でこそ NDS 大勝利の世の中であるからまさに我が世の春を謳歌できている彼らであるが、N64 時代には目を閉じ耳をふさいで「任天堂に失策はない、任天堂に失策はない…」と真言を唱え続けた不遇の時代もあったのである。あの頃のことを思えば現在多少はしゃぐくらいのことは大目に見られて然るべきかと思う。
- もっとも、彼らも肥大化したコミュニティの常として「伝統的に任天堂社を支持し続けていた古参(わりと冷静かつ温和)」と「最近なんとなく任天堂社製品がおもしろいというので寄ってきた新参(とにかく勝ってる側についてはしゃぎたいだけ)」の温度差を抱えており、一枚岩というわけではなさげ。いかにして新参者を中堅に叩き上げていくかが、古参信者の課題だろう。
- ゲームナショナリズム急進派のひとつ。
…とりあえずここまで。あ、ゲームエゴイズムを忘れてた。けどまあいいか。あれはゲームに限らないオタ全般の話でもあるし。