非モテ関連メモ 1
勉強するにもどこから手をつけていいものやらわからん。この一年あまりでネット上はあまりに非モテ関連のドキュメントが増えすぎ、しかも以前言われていたような用語「非モテ」とは全然別の発展を遂げた(ように思う)。歴史や経緯やなにやらわかりやすく紹介・解説しているサイトが欲しいんだけど、非モテ界隈で有名というと当事的立場のひとたちばかり目につき、一歩引いて中立的に淡々と記録しているようなひとを探すのが困難。居るのかもしれんのだけど調べられなかった。唯一みつけることができたのが「非モテ Map」(http://scarecrowbone.main.jp/archives/himotemap_001/himoteMap_01.html)で、ここのページはありがたかった。おれもずいぶんまとめサイト脳になってきた。そしておれのようなひとは少なくないはずだ。なぜなら非モテの車輪は何度でも再発明されているようだから(というか「自分なりに車輪を再発明してみせることで、はじめて非モテ道に入門できる」みたいな不文律の存在すら感じさせる)。なのでそのような世界への第一歩としては、車輪の自分なりの再発明方法を編み出すための前提の整理、のための書き出しからだろう。
思いつくまま適当に。思いついた順に書き足し。思いつかなかったら後日に回す。あとで整理。しないかも。
- 「なぜ非モテ話が盛り上がるのか」の基本的な認識
- 基本的な疑問
- 「恋愛関連に無関心になるのがいちばん楽だし自然なのでは?」
苦手な土俵から降りて別に得意な土俵を探せばいいんじゃないかなと思うが(スト II が苦手ならパズルボブルを遊べばいいじゃない派)、世間はそのようではないらしい。現代日本は恋愛が必要条件の社会とは思われない。いまひとつわからん。おれにはなにかの道理が見えていないのだろう。
- なんとなく近い位置にありそうだったり対立してそうだったりする用語がいろいろあるけど、それぞれを突き詰めていくとてんでバラバラ問題
- 非モテとモテは対立項ではない
- 「モテ」の実体を特定しようとすると、対する(と思われる)「非モテ」の像が曖昧になる。「モテ」問題を語るとき、その文脈上で「非モテ」を語るのはむずかしい。
- 「非モテ」の実体を特定しようとすると、対する(と思われる)「モテ」の像が曖昧になる。「非モテ」問題を語るとき、その文脈上で「モテ」を語るのはむずかしい。
- 「モテ」と「非モテ」以外に、たとえば「ふつう」というような大きな層が存在するという話になるかといえば…。どちらかといえば、モテも非モテも世界観語というあたりに落としたほうが自然な気がする。「なにかをそう捉える」こと自体が重要という。で、ひとつを固定する世界観上で、別のものも同時には固定できない。だから、並べて語るのは倒錯かメタ芸か、という気がする。
- 非モテとメタ非モテはまったく別物
- 非モテは非モテ的状況にある、おかれた、そう自覚している、またはそう観測されるひと。
- メタ非モテは、非モテ的状況を分析したり語り合ったりするのが好きなひと。「そのひと自身が自覚無自覚問わず非モテであるか否か」は問題にならない。というか、「自分自身は非モテではないと自覚している」場合さえありうる。ただ、ここで注意しておきたいのが、メタ非モテを自認し「べつに自分自身をマップ上に配置して、一人称視点でこの問題を考えてみるつもりはない」というようなスタンスのひとであっても、現実にそのひとが他人から「十分立派にこのひとは非モテである」と観測されうるようなひとである(「自覚メタ非モテ兼無自覚非モテ」)というような状況もありうる点。
- じつは先日の非モテ OFF に関して、(べつにおれが心配するようなことではないと思いつつ)この「非モテ / メタ非モテ」が混在してしまうことによる事故を懸念していた。単に「非モテの会」という題目で大勢のひとが集まった場合には、「非モテなひとたちが集まるんだ!」と「非モテの話題について語りあう場だ!」という二通りの理解がありうると思われるので。ただまあ幹事のひとのサイトのログを参照してみるぶんには、「あまり(おれの想定する)「真の非モテ」のひとが来るような会にはならなそうな気もする」という勘もなくはなかったというか。このへん曖昧。
- 非モテと脱オタは別ベクトル
- 非モテとモテは対立項ではない
- 対恋愛意識レベリング
- 「モテたい」「(漠然と)彼女彼氏が欲しい」「(特定の)○○さんと付き合いたい」の三段階は、議論のうえでは厳密に分けたほうがいい気がする。実践においては確かにこれらの境界線は曖昧なのだけど。
- 昨年末の時点(→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041218#p1)の認識ではまだ雑だったかも、という保険もあってもう一段階追加。同時に、これをオタだけではない問題として捉えなおし。
- 「モテの標準化」は誰の願いか
- 「非モテの細分化」は誰の願いか
- 非モテ OFF での収穫
- 「将来にわたって非モテで居続けることを願っているわけではない非モテのひとが抱く不安や悩み」に関連して。
- 「モテたくないわけじゃないけど、ほかにやりたいことも色々あって手が回らない。一週間のうち一時間くらいはモテのために使ったりしてもいいかなとか」みたいな発言があった。この考え方は率直でおもしろいと思った。
- これに対して「モテるための努力を定量化して示すのが本来的なのではないか。つまり、モテのために時間を一日これくらい、お金を一ヶ月にこれくらい使うというような。どのみち個別のケースに対処することはできないので大雑把なものにならざるをえないが、非モテを脱するためには最低ここがボーダーだと示すことができれば、「それだけのリソースを割けるか割けないか」という判断にまで悩みを単純化できる」という意見があって、なるほどと思った。
- 「脱オタの明暗」に関連して。
- 「将来にわたって非モテで居続けることを願っているわけではない非モテのひとが抱く不安や悩み」に関連して。
- 「なぜ非モテは拡大するか」の基本的な認識
- 世の中、モテるひととモテないひとでは、モテないひとのほうが多い(最広義での非モテは確実に多数派となる)。
- 誰にとっても自称「非モテ」にはデメリットがない。
- 非モテのひとは非モテの自称で傷付かない(当然)。←どうも言葉がまずいので言い換えると「傷付くが、その痛みは日常化している」「場合によっては、そうやって傷付くこと自体生存確認手段化している」「新しい傷がついても、既にあまりに傷が多すぎてどれがどれかわからない」。
- モテのひとが「自分って非モテなんだよねー」とか言ったところでモテであることに変わりはないため、問題ない。
- 「おれはガチで非モテ」とまでは思っていないひとにとって、非モテは居心地がよい。名前を借りて安心する、属性を名乗れば責任が軽くなったような気がする、多くの仲間が居るように感じられる。
- 逆に「自分はモテだ」などと自認するというのはデメリットばかりで、それを選ぶような人間はそうそう居ない。恋愛区分の中で孤立化ゲームを勝ち残りたいだけなら、「モテを自称する」のが実はいちばん手っ取り早い。
- モテと非モテと恋愛の関係
- 「モテ→恋愛 / 非モテ→非恋愛」、ではない。モテも非モテも恋愛と関係する。恋愛は誰かを好きになったり好きになられたりしつつ展開する状況のことだ。非モテに対するモテの優位は、「自分が好きな、または自分がこれから好きになる可能性のあるひとに、あらかじめ、または今後好感を持って接してもらえる確率が高い」こと。チヤホヤ状況などがそれ。
- つまり「モテ / 非モテ」は「(誰かから)好かれる」能力に関する区分と説明できる(それがどの程度「標準的」であるかという、非常にローカルな判定が毎時下されるわけだ)。で、大抵の「モテ / 非モテ」の判断では「(誰かを)好きになる」能力について触れられていないようで、これは興味深い。そして、誰かを好きになる能力が低い場合は、非モテ側に振り分けられるのが一般的なようだ。
- 「彼女が居る非モテ」は成立するか?成立する。上述のとおり、モテと非モテは機会と確率の問題だから。
- ネガティブの連帯
…いろいろ書いたり消したり書いたり消したりしているうちに寝てしまったので明日に持ち越し。