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歴史と偉人

旅行写真 | 060102

ガキの頃、後世に残るような立派な仕事をするのがよいと言われたが、いざ学校で歴史を習ってみると、後世まで残ってることとそれが立派な仕事であるかというのはあまり関係のないことのようにも思えてきてこのあたりは薄らいだ。あと歴史というものが、こういってはなんだがけっこう恣意的なかんじとか、あとわりと大雑把なかんじとか、人間いっこぶんの暮らしを賭けてどうのこうのっていうにはずいぶんいい加減というか、ちょっと頼りないものに思えたりとか。やはり「歴史に残る!」とか「歴史を作る!」て言われれば発奮せないかんのだろうかな。後世を考えて今日を生きるってのはどう考えても負荷のかかる暮らし方なので、それをやろうっていうようなひとは「大変だろうなあ」とは思うけど、かといってそれが彼らの後世における存在の継承につながってるのかというと一概にそうとは思えんというか。どちらかというと「残っちゃった!」みたいな例が相当混じってる気がする。あとなんかそういうのメタっぽくていやなんだよな。残すつもりで名を残すってのもなんか人間が小せえなあというか。まあ宝くじみたいな確率の連続であるところの歴史に組み入れられてゆくような人々というものが、本当に宝くじのような確率の目をくぐりぬけてきたひとたちだとも思えんので、やはりそこはそれ歴史的な出来レースのステージというものが存在し、そこに到達するための競争というものがあるわけなんだろうし、またそのスタートラインの手前の時点でレースを降りるような人類も膨大な数居るんだろうから(おれもその中の一人か)、実際の倍率は思うほどには高くないのかもしれない(あと「史観を作る」というアプローチもあるけど微妙に筋合いの違う話っぽいのでひとまず置く)。ただそれは、十分にそういったことがわかるようになってから語られるべき、子供には生臭すぎる話かもしれない。これに関するあくまで清廉な教えというのは、「死ぬまでにおそらく立派だろうと自分が思えることを成し遂げて、それが後世になるべく誤解なく伝わり残ることを祈れ」とかになるんだろうなあ。

偉人伝とか読んで、このひとのように生きるのがよいと言われたこともあるが、これについてはガキの当時にも疑問だった。偉人のひとは、偉人なだけあってまあ突飛なこととか偉大なこととかもやるんだけど、学べる人生訓というものはそれほど新しくないというか、すくなくともそのひとのユニークな成果というのは、そのひとが既に成し遂げているわけなので、じゃあべつにいまさらこのひとと同じことしたってしょうがないじゃんとなり、ユニークでないところを参考にしろという話なのかなと思うが、そういう部分については、どっちかっていうと祖父や祖母などに言って聞かされる「あれはよい」「あれはダメ」「ああいうのは感心する」「あれはやっちゃいかん」みたいな話のが具体的で参考になるわけなのだった。子供に読ませる伝記の主人公がなぜ偉人なのかといえば、それは偉人くらいしか個人史が残ってないからで、「名前」と「そのひとがこの時代に生きた」という事実だけが借りられてきており、べつにほんとは凡人伝でも構わないんだろうなあというか。まあ凡人よりは偉人のほうが、名前が残っててとおりがいいから、凡人伝と偉人伝が並んで置いてあれば、やはり選ばれるのは偉人伝ということになるんだろう。