人狼
雑感。
確率のゲームとも文脈のゲームとも取れる。なんにせよ物事を確定させることが困難なため、シミュレーションしだすと理屈が適度に脳からこぼれる(「両手を使ってワイングラスをいくつ持てるか」みたいな悩ましさ)。外部ツール(表計算とかフローチャート作成とかのプロジェクト管理とかツール)を使えばかなりラクにはなる、が、そこまでして遊ぶものでもないと思える。脳内テーブルにひろげきらない余り部分を文脈とか勘とかあてずっぽうとかで補いつつ、理性の外形を整えつづける(社会人としての体面を保つ)ゲームか。そういう意味では極めて日常的。ゲームのように感じられるのは、行為と責任のプロセスをディフォルメしてある(する)から。
確率で遊んでいてはつまらない、のでこれは信頼のゲームである、とも言えるようにも思えるが、実際のところ人狼上で誰かを信頼する必要はないと思う。その反対の疑惑も不要(それらはゲーム上の戦術語でしかない)。出される提案なり示される個人的事実は、ただ単にそれだけのものだ。信じてもいない神に祈ることだって人間にはできる。その場その場でもっとも無難と思える手を打っていけばいい(←村のシチュエーション次第でもっとも無難なのが「一貫性」なら、一貫性のある言動をすればいいというふうに)。そして無難というのは常にわかりづらくむずかしい。そこがこのゲームの、おれにとっての肝になるのか。ようするにバランス。おれにそれはない。オタには。曖昧なものは曖昧でなくなるまで待ってから決めればいいとか、理解可能の筋合いによって納得しつつ一歩一歩進むとか、そういったことを完全にはできない仕組みになっていて、それはつまりオタにとっての社会不安と同じだ。だからむずかしくおもしろい。