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サノバビッチだぜおっかさん

son of a bitch というのはすごい罵倒語だと教わった。さっきExcite翻訳(http://www.excite.co.jp/world/text/)してみたら「畜生」と出た。
韓国にも同様の罵倒語があると聞いた。直訳すると「犬の息子」とかそういったかんじの表現で、ともかく韓国で誰かにその文句をいおうものなら(家系を重んじる気風もあって)即座に血みどろの殴り合い勃発みたいな最悪の罵倒らしい。

日本語でそれに近い罵倒は…「おまえのかあちゃんでべそ」だろうか。ともあれ本人ではなくそのルーツを罵倒することで間接的に傷付けるという経路の長さ(わざわざそこまでして罵倒すること)によって強い表現として成立しているというか、そういう言葉の数々。世界中探せばもっといろんな表現を、様々な言語の中から見つけることができるだろう。

でも、なんつーか、こういった文句っておれあんまピンとこないんだよな。おれがへんなのか。

でべそとか犬とかビッチとかなんとか、単に言われただけのことであって、それで本当におれのかあちゃんがでべそになったり犬になったりビッチになったりするわけじゃない。または、もともとがそうであったならそれはそれで問題がない(単に痛いところをつかれてむかつくというのはあるかもしれなくて、その場合ならまあ怒るのは妥当と思う)。神でも魔法使いでもない人間の言葉には直接の力などなく、光あれと言ったところでそれが光を生むことはない。それと一緒。

というか、仮におれのかあちゃんが実はでべそであったり犬であったりビッチであったりとかしても、それはそういうものとしてまたべつに現在までのおれと母との関係はあったわけだから、そのことによって(つまりおれの母が真にでべそや犬やビッチであっても)おれと母の関係が変わることなどはないわけだ。

それはようするに「実はこれまでそうとは知らなかったがおれのかあちゃんは実はでべそ、または犬、またはビッチだった!」となったとき、変わらず母を愛せるか?という問いであって、まあ単なる仮定の段階でなら「問題ないんじゃない」と考えておくほうがふつうなんじゃねえかなというか。少なくともでべそであろうと犬であろうとビッチであろうと、これまでの生活のうえでおかしなことがあったわけでは、(これはゆらぎのある言葉などではなく確実なこととして)ないわけだし。なにか問題があったとしてもそれはあたりまえの延長線上にあったはず。

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…というのがまあおれの話なんだけど、でも実際には「おまえのかあちゃんでべそ」は脅威になる可能性がある。

現実、物理法則というか、そういうレイヤのうえでは、誰かに「おまえのかあちゃんでべそ」と言われたからといっておれのかあちゃんがでべそになったりはしない(実際にでべそだった場合にも、それはもともとそうだったのであって言われたこととは関係ない)。けども、社会的には「おまえのかあちゃんでべそ」と言われることによって「おれのかあちゃんはでべそだった」ことになってしまう場合があるのだ。この世は人間が作ったものではないし人間が維持しているものでもないからそこに(同等の格として)及ぼせる人間の力などは「ない」と言ってもいいんじゃないかと思うけども、これが社会となれば話はまったく違って、社会は人間が作って人間が維持しているものだから、人間の力がダイレクトに影響する。そして言葉、罵倒も含むそれは、社会形成の重要な要素のひとつだ。

ゆえに「おまえのかあちゃんでべそ」とか言われたらちょっとまてこの野郎ときちんとアピールをするという行動は正しいともいえる。それをやっとかないと、「べつにおれのかあちゃんはでべそでいい」とかそういうレベルの問題ではなく、「おれのかあちゃんは本当にでべそだった」というパラレルワールドに現実がシフトしてゆくことを認めるということにもなりかねない。

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というようなことを考えると、「おまれのかあちゃんでべそ」系の罵倒語というのは、その言語圏のひとたちがどの程度社会性を持っているかのバロメータになるんじゃないかと思った。…まあどこでもあんま違わないっていうか総じて高いんじゃないかと思うけど実際比較すれば。

ただ、あんまそういう意味での社会性は、高けりゃいいってものでもないと思いたい。「おまえのかあちゃんでべそ」を脅威と感じる感受性は、訴訟社会とか言ったもん勝ち社会とか、そういった「なんかとにかく毎日疲れる生き方してないとダメ」な方向にいっちゃうんじゃないかというか、そういうのがいやだからおれは。