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もしもフラウ・ボゥが神岸あかり的存在だったら

もしもフラウ・ボゥ神岸あかり的存在だったなら、アムロ・レイは毎度ひとりで抱え込んで暴発することなくけっこう毎朝スッキリして仕事にかかれたんじゃなかろうか?

いやちがう、変わらない、たとえフラウ・ボゥ神岸あかりだったとしても、一年戦争が勃発した時点でどのみち藤田浩之のほうがアムロ・レイになってしまだろうから関係ない、無駄だ。不条理な戦争状況下でアムロはよくやってるほうだ。平和状況下のドラマであったなら、アムロはむしろ藤田浩之以上のフォローキャラとして立ち回れた可能性だってあるはずだ(「ニュータイプは平時においてはおそらく気配りの達人」説)。

…というふうな思考実験は、ToHeart 以降大抵の少年主人公の戦争ドラマで一応やってみることにしている。身近に包容キャラ(都合のいい抱擁対象)が居た場合にあのへんの主人公的苦悩は劇的にしぼむか、はたまたそんなもん関係なく起きるべくして起きるか(結局起きなきゃドラマにならないので制作的には起こすしかないにせよ)。

戦争という特殊状況は主人公キャラのスペック表に見えづらい部分を作ってしまうので、状況を取り払ったときの素の彼らというものはストーリー上のみでは把握できないはずだ。彼らは才能ゆえに生き延びるし極限状況を多く経験せざるをえない結果として利己的にふるまうことがしばしばあるが、それでは彼らにストレスがあまり与えられなかったとき、彼らはどう振舞うか、つまり彼らは「日常的にはいいやつ」であったのか、それとも「日常でもあんなやつ」だったのか。

たとえば「無限のリヴァイアス」などはそういう局面もクローズアップすべく制作されていたように思うけど、それを想定したうえでのキャラクタ群のバリエーションの散布状況がモロに作図的というか、意図的な印象だったので、あれは繊細ではあるかもしれないがクレバーなやりかたじゃないよなと思う。ああいうふうに「そう作った」感が前面に出てしまうようでは、キャラクタ以前に制作者のほうがまず透けて見えてしまう。「天然に勝るものなし」の判断は残酷なうえに発展性に欠けるので、そう割り切る前にもうちょっと考えてみておきたいところ。