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ロンギヌスの槍はアニオタの夢を砕いたか?

先日のガンダムとオトナ帝国の話に関して、「「本気でオタにとどめを刺しにきたようなアニメ」として、エヴァが挙げられてなかったんですが、あの最終回とか映画版とかって違いますかね?」という指摘をいただいた。

そういえばエヴァがまったく眼中に入っていなかったとメール読んで気付いた。あー。

で、改めてそれでは「エヴァンゲリオン」はオタにとどめをさしにいったアニメだったのかと考えてみた。第一感としては、なんとなくそう感じない。オタクラッシャー候補を考えるときおれの眼中に入らなかったのはそれで正解だったからなのかなとも思える。

とどめにさしにいくような文脈をそこに探すとすれば、なんとなく「新くてあたりまえの生活に帰っていきましょう」というよりは「アニオタは先がないので中退しましょう」といったかんじの趣旨のように感じられ(つまり後先を示すビジョンが特になく、自分ですでにビジョンを持っているひとは相手にしていないように感じる)、しかもその明らかに屈折した想い(がそこにあると推定したうえでの解釈)を視聴者が素直に受け取るわけがないことは自明、はじめから無効だ。監督の庵野氏自身が疑いなくオタなのでオタに関するそういったことも十分にわかりえたはずで、ならばこれは意識的に決定された表現と判断できる。

中里一氏の 03/02/20 の日記(http://kaoriha.org/nikki0302.htm)で触れられていた大塚英志氏による「有害コミック問題・美少女系エロまんが関連の記事の論旨」と通じるところがあるのかもしれない。オタは目の前に投げ出されたテーゼをそのまま食わない。往々にして否定する。そのうえにもってきて「萌え」以降のオタはアンチテーゼをおおっぴらに肯定してみせるあざとささえも獲得してしまった。こうなってはオタ相手には何を言っても無駄で(熱量それのみは解釈されるが、その持っていた方向性は意図と関係なく場の都合によって解体され消費される)、そういう制作側の無力感やどうでもよさ、そこを抜け殻として脱皮を図ろうとしているひとたちが居る状況というのが現在だ、と思う。

オタ相手になんらかの干渉をかける場合に有効な手法はそうした「オタの土俵」のうえで有効と思われる切り口に頼ることではなくて「オタを自分からオタの土俵から降りるよう仕向ける」ことだということになるのではないかなと思う。そしてエヴァンゲリオンはたぶん、前者だった。エヴァオタとしてのオタに横合いから斬りかかることはできたかもしれないが、アニオタとしてのオタにとどめを刺す力は最初から持ってなかったし、見込まれていなかったんじゃないかなと。

…ということは、土俵の上での技巧に頼ったおおきな力は土俵の外に向けての力として働くことがない(≒そういう場合には無力である)、というおれの無意識の判断がそこにあるのか?

表現を変える。エヴァンゲリオンが理由でアニオタをやめたり、アニメから遠ざかったようなひとは少なくともおれの周囲には居ない。

ドラクエで勇者や仲間が殺されても王様とか教会とかでよみがえっちゃうし、そういう打撃では殺せない。いくら HP を減らしたところでプレイヤは生きているからだ。方法が違う。

次のステップ。電源をひっこぬいてカートリッジを叩き壊したくなるようなゲーム(=クソゲー)を出してプレイヤに直接精神攻撃をかけるっていうのはかなりいい方法だけど、それでもまだ足りない。クソゲーを知ったくらいじゃオタはやめない。どうせまた新しいゲームを買ってきて次のゲームをはじめる。この手段も正しくない。

オタを真に殺すためには「自分からオタをやめさせる」しかないんじゃないかなと思うのだ。旅人の衣をはぐには北風じゃなくて太陽。オトナ帝国はなつかしい二十世紀に戻るより家族と生きる二十一世紀を選んでみせるヒロシと、彼が支えるに足る見事なしんのすけをも示してみせ、それを眺める視点として胸をしめつけた。これならどうだ。オタはぶった斬られる、と思う、すくなくともおれには効いた。ぐはあ。死ぬことはもちろんないが(おれは、このおれがアニメごときでオタをやめてたまるか!というふしぎパワーを体得しているので)、しかし明らかに外部へ通じていくダメージだ。いずれ来る死と再生を予感させる。

エヴァンゲリオンにそういう出口はない。エヴァはオタクの内側だ。あるとしてもひと時の死、そして死後コンティニューされる。あるいは見方によっては、エヴァンゲリオン寿限無「マニー」よりは先まで進めたのかもしれないけども。

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…しかしなんだな、結局「内の力だから違う」っていうような理屈しかこねられないかっていうか、今読み返してみて全然筋道がとおってないなと思った。これはこれで一息に書いたおれの所感なので書きっぱなしにしておくんだけども、やっぱしなんかアレなんだよな。ひとりよがり論法であるにせよ、もうちょっと優れた表現だってできるとは思うんだけど。

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ところでこの「エヴァナチュラルに眼中になかった」というのはちょっとおもしろいかもしれない。03年現在のおれがアニメとか肴にしてなんか小難しいことを考えてる時、エヴァンゲリオンがおくびにも出ないってのはなんか奇妙にすがしがしい。ただ単に忘れていたのか、それとも実は「脳内では意識していて、そのうえで候補外として扱った」のかについては、どうにかこうにか客観視点をつくって検証してみたほうがいいだろうけど。

「無視していた」っていうことはない。無視は戦争と同じく多大な浪費なので、なにかを無視しているときそのことに無自覚であるのは不可能だ。疲れるから、必ずわかる。おれはごく自然だったので、わからなかったし、ということは無視してない。視野にはあったが、風景に溶け込んでいたか、視界に入ってなかったか、ともかく個体として浮かんでこなかったのだ。

いまどきにエヴァを土台にして展開する議論の食いごたえのなさっていうのが、ほんとにおれの実感なんだなあと今回の件ではっきりした。もう忘れちまってるよおれ。小売店の店主にとって金勘定はおもしろいが経済学がつまらないってのといっしょだ。確かに、ええと、7,8年前だものな。エヴァンゲリオンはオタ的な大事件のひとつだったので、あれが大きな節目になっているし、あのあたりから汲み取れるものっていうのは現在でも多大だとは思うけど、もう明らかに当時の面影は存在していない。実体は名を変え品を換え、ただ潮流の源としてその名が残るのみ。

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あとついでに考えてみようと思った仮定について、もう眠いので放棄してメモ。

  • エヴァ議論全盛時代に対するアンチテーゼとしての萌え
  • 中毒的議論連鎖に対してあほらしさを表明する姿勢
  • スノッブ=かっこいい系のごく短期間の台頭?
  • →→スノッブは萌えに駆逐されただろう
  • →→→(一瞬だけ天下取ったけど結局柵の外に追い出されたかんじの?)
  • →ハァハァはスノッブが多数派オタと再合流する契機?
  • →→(もう食えるシェアがないほど肥大化し、風俗化する過程で結果的に?)

萌えがエヴァオタの文脈から発明されたなどとはまったく思わないけど(むしろ当時かれらと違った温度でアニメを楽しんでいた客層がその土壌を作ったのではないかと思う)、顔真っ赤にして議論するという形態に対する疲労とか反省とか羞恥心とかから、ひとしきり議論やって疲れた元エヴァオタのひとがそうした潮流に対する肯定的な担い手として参加したっていうような状況はありえたと思う。

なら次は萌えに対する飽きからくる議論再熱の時代?…と予測するのは単純だし危なげだ。たとえばガンダムSEED関連におけるそれは、元エヴァオタ層とはちょっと違うんじゃないかなと思えるし。