「魔法遣いに大切なこと」とインド式世界認識
十年ほど前、オタの大先輩から「あらゆる意味と無意味はすべて「インド」という単語ひとつに包括される」と教わったことがある。これは言ったそのままの教えではなく、得体のしれないものや奥まで触れたくないものに接してしまったとき、人間がおもいつくこともおもいつかないこともすべてインドには含まれているのだと一旦想定してみることによって把握や判断や保留にかかる心理的負荷を軽減する方法のひとつと説明できる。
単語はなんでもいい、アラビアでも中国でも構わない。だいたいの場合自国(または地球)以外の「謎の○○人」の「○○」にあてはまりそうな国なり星なりが適当だ。とにかく何にでも名前を与えてみる、たとえばインド、それが仮でも構わないしむしろ仮であることを忘れてはならないが、対象に名を与えるというのは結果的に冷静さを取り戻すための効果的な手段なので、そうした仕組みを意識的に利用することで一旦無責任に安心してみせ、そうして得られる一呼吸ぶんのインターバルで相手をではなく自分自身をよく分析し考え、そしてわかる範囲での自分自身とわからない部分を含めた対象とその他諸々を包括している周囲の状況をひっくるめて脳内バックグラウンドタスクに置いといて、リアルな状況のもとで対象にしかるべき措置を取れ、ということだ。以上を一言でいうと、インド。またはアラビア、ないし中国。そのほか。
「魔法遣いに大切なこと」は現在で漫画で雑誌でTVでアニメで見知ったようなパーツでオタ向けにインドをやっている作品なのだろう。インドだったらしょうがない、あるがままがすべて、逆にいえばそれ以上ではないということだ。異文化コミニュケーションはなにもきもちのいいことばかりではないが、考えてみればそれは同文化相互消費よりずっと健全なありさまではないか。だからやっぱりおれは魔法遣いに大切なことを見ておいたほうがいい。
あと月に飛んでいく話が相当突飛だったという感想がネットのあちこちに上がっていて、そうだったのかなあとちょっと首をかしげた。おれはそのエピソードのアニメ版は未見で漫画のほうを適当にパラパラ読み流しただけなんだけど、そんなに変だなあという印象はなかった。…単に漫画自体の印象が薄かっただけなのかもしれない。ちゃんと読んだらふざけんじゃねえよと思うのかも。でもそれとは別にして多少アニメと漫画っていうメディアの差があるんじゃないかなと思った。月に行っちゃうっていう物語的なスキップはアニメというより漫画というより絵本に近いものがあるんじゃないかと思う。そんでもって漫画はアニメよりは絵本に近い表現ができるから、たぶんアニメで見るよりは漫画のほうが違和感を強く感じることはないんじゃないかなとか。
ていうかおれ子供の頃に先生と生徒が月へハイキングに行くーみたいな絵本を読んだことあるような気がするんだよな。記憶曖昧だけど、確かそのおはなしでは先生の正体がロボか何かで不思議な力を使えてとかなんとかだったような。違ったかな、うー、わからんな。ともかくその絵本はいい話だったし、そうした「絵本だったらいい話」の筋道を違った角度と時系で辿ることで解体しつつ現実の重さも同時並行させることで落差を表現してみせるという演出意図があるのなら、その骨組み自体はたぶんおれにとっても十分おもしろいものであるはずだ。実際どうなったのかは見てみないことにはわからないけど。
こうしたシーン構築の発想っていうのは確かに演劇的とも言える気もして、そういうふうに見知った「魔法遣いに大切なこと」に関するキーワードを適当につなげてみることでおれはひとまずの安心を得たいんだろうなと思った。
というようにとにかくなんでもいいから取っ掛かりを探して安心しようとするパターンにはまっているようではオタとしてのおれはいよいよ終わっていくしかない。インドを捨てて不安と共存するためにどうすればいいのか。