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03 年初頭の萌え妄想

「萌え」を解釈しようという動きが常に流動的になってしまうのは、オタの一般的な「定義することが好き。そして誰かに定義されたら「いやいやそうじゃなくてこれだ」と再定義するのがより一層好き」という形質のはなしで片付けられる問題なのかなとも思っていたんだけど、いやそれだけじゃなくてもっと違う、性差の問題がそこにはあるんじゃないかとも思ったりもしてみた。

原理的には男が言語のみによって(仮想上の)女のセックスを説明しようとしてるようなものなんじゃないかというのか、そのものではなくて、それに近い何らかの障壁が常にそこにあったんじゃないかということだ。だとするなら延々と定義が重ねられたにも関らず相変わらずまさにこれだというような「萌え」が定義されていない現状は簡単に説明できる。つまり「萌え」を完全に表現するための言語をそもそも男は持っていないので、どれだけ言葉を重ねたあとにでも、誰でもが何とでも言える。だから終わらない。とか。

これはおれが、男性の女性化云々と叫ばれていた世情に対してわりと肯定的にそれを受け容れつつオタの世界を眺めてきたからそう思うんだろうなというか、明らかに根拠となるようなものはなにもないんだけど。

「萌え」は、80 年代から 90 年代初頭までで物質文明的なオタ快楽を(高度経済成長的な熱狂によって)ほぼむさぼり尽くしてしまった男オタが 90 年代中期あたりから自身の進化(=より取り返しのつかない状態への衝動)の行き詰まりを薄々感じはじめ、おれたちのこれまでの進路にはもうそろそろ先がないから次を探さないと、という戸惑いと模索の時期がしばらくあり、ほとんどの男オタにとってはいまだ未開拓の分野であった精神文明において古くから権勢を誇り一大版図を築いていた女ヤオイの形質を知り、なら次はあすこに学べとがんばってそれを取り込もうとしていく過程で生まれた「男性の中の女性」的感覚がその発端だったのではないかとか疑うことができるし、そういうことを書いてる文章をけっこう前に読んだことがあるような気がするから、たぶん自己言及大好きっ子な男オタならそうした説のうえでの自分自身のありかたに関しても自覚的だ。

進化に行き詰った男オタたちは女やおいに学び、約十年をかけて自身の体内に精神オタ文明に適応するための器官を作った、それが萌えだ、という。完全な意味でやおい化し(つまり萌えを必要とすることなく)、ナチュラルにやおいに適応した男オタも僅かには居たようだがやはりそれは少数派に留まり、だから人工器官であるところの萌えは精神的に稼動こそすれその外殻は物質的なロジックによって形成され、かつ傍から見ると異形のものとなった。やおいはきっかけでありモデルケースではあったが萌えがそれを模倣することはなかった、それはできない相談だったし、やる必要のないことだった、とにかく結果的に適応さえできればいいのだから中身まで理解する必要はない、そうしてオタは見よう見まねで作り出した、自分でもどういう仕組みで動いてるのか実は全然よくわかってない「萌え」というブラックボックスを躊躇なく体内にインプラントした。その結果が現在ではないだろうか。

萌えは男オタにとって新しい概念だったから既存男性語にその意味はなく、かといって女性語ではなかったし、なりえなかった。現時点ではまだそれを説明する言語を持った人間は生まれていないのではないか。いやそれはおれの勘違いに過ぎず、本当は見事な説明がすでにそこにあるのかもしれないが、既存男性語しか理解することのできない男オタであるおれがそれを解釈することができずノイズにしか感じられていないだけなのかもしれない。

ともあれ結果男オタは新たなフロンティアを得て、萌えの力であらたな地平を開拓し、ここまできた。異質の器官によって新天地に適応することになったオタは先住民であるやおいとは似て非なるものになり、だから衝突も融和も劇的には起こらず、しかしまったくないわけでなく、じわじわとその境界線は揺らいでいる。

しかし、やはり、これはまだ次のステップへの前段階と言えるんじゃないだろうか。ガシガシと勢いにまかせて先へ進んできてはみたが男オタの精神文明はやはりまだまだ単調で、底が浅く、野蛮な面を多く持っている。文明に深みが加わるには世代がかさなり熟成されなければならないだろう。やがて萌えが解体され、かといってやおいでもなく、それでいて普通に物質も精神も自在にするような、いうなればキニスンとクリスの息子キットのような、第三水準知性的なオタが…と、そこでサムライレンズマンがまた読みたくなった。

ともあれ「強引」や「不自然」、「極端」が売りにできる世代は開拓民的だと思うし、それがいつまでも続くようではつまらない、はずだ。あたりまえのことをあたりまえにやってる連中は着実に増えていると思う。

いやそうじゃないかな。この考え方でいくなら萌えの現象は、結局オタが大きく変容することはできないという事実を示すもので、徐々にじわじわとやっていくしかないのだということだから、現在からみて劇的な連中はやはり、うんざりするくらい長い時間をかけないと登場してはくれないんだろう。もちろんそれは、近い将来おれなどの古オタからすればわけのわかりようもない後発で優秀なオタがいきなりドカンと現れるだろう、というような未来予想図よりはおれによって住みやすいオタ社会が今後も当分続くという予想で、それはそれで悪くない。

で、予測可能っていうかすでにいくつもの実例があがってるのが「萌えテロリズム」の台頭だ。萌えに関するスーパーハカー、劇場版パトレイバーの帆場英一か、はたまた OVA ジャイアントロボのフォーグラー博士みたいなオタがいきなり萌え爆弾を爆発させ、日々アニメに漫画にゲームに小説にと忙しくオタ活動にいそしんでいる平凡で善良なオタたちを同時多発的に萌え殺す。萌え器官はこの場合 HOS なりシズマドライブに相当する。これを組み込んでしまっている人間は例外なく抵抗不能で、そして大半の人間がなにが起こったのかもわからぬまま死ぬ。

広く一般に普及し、しかし「誰もその仕組みについて完全に理解していない」状態、これが危ない。ハカーに衝かれればすべてアウト、予測不能の大規模人害が起きる。「はじめてのおるすばん」(18 禁注意 http://zero.product.co.jp/products/rusuban/)事件のように。

…ああ、そうか。おれがいっしょうけんめい自分のあたまの仕組みについて考えようとしているのは、つまり、テロによってわけもわからず殺されるのがいやだからなのか。どのみちテロは起きて、運悪くその渦中に居合わせてしまったらおれも死ぬしかないんだろうけど、それでもおれはそこにおいて、せめてわけがわかって死にたい種類の人間なのだろう。

ハカーといえども所詮は同じ人間、同じ人間である以上萌えエンジンを完全に解明することはできないだろう、であれば、そのハカーと同じ程度まで自分の中の萌えエンジンに対する理解があれば、それによって殺されても自分がどうやって死んでいくのかだけは理解することができる。はずだ。

と、そういうふうに脱線してみてちょっと思ったんだけど、こういうおれの志向っていうのは萌えエンジンをわざわざ自分に組み込むっていう意義を薄めているよな。ジェットコースターのような日常を楽しみたい、日々発見があるとうれしい、そういうふうに生きるためにはどうすればいいか、それには自分のこころの仕組みに対して無理解であるのが一番だ、とはならないだろうか。

萌えの組み込みっていう状況は、「萌えはブラックボックスだからこそおれたちの日常を面白くする働きを持つ、いやむしろ、たとえ完全に理解できるものだとしてもブラックボックスだというふうにしたほうが楽しめるからそういうふうにしておこう」とかいう心理が働いているんじゃないだろうか。かつてはともかく現在においては、萌えテロに遭遇したいがために、オタは萌えているんじゃないだろうか。

驚きたい、爆死したいからわざわざ自分で死角を作ってみせているんじゃないだろうか。
だとすればやっぱし萌えテロリストが神なり救世主なりと呼ばれている状況は非常に納得しやすい。のか、ぬう。