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崖の上のポニョ

どうにも我慢できない水位までモチベーションが高まったので見に行った。おもしろかった。

で、まあどうせ後々また再視聴とかすることになるんだし、初見の感想でも書いとくかーとはてダに向ってみたのだが「おもしろかった」以外の特に感想が浮かばん。いや違って、雑念がいろいろ浮かんではくるのだけど、なんかどれもこれも感想ではないかんじがしてなー。最近だと AURA の感想が書きづらかったけど、あれは「モヤモヤしたものが自分の中にあるんだけど書き出せるかどうかわからん」てかんじで、ポニョの「いろいろ書いとけそうなことがあるんだけど、たぶんこれはおれの感情には関係ない」みたいなのとは違う。他人の夢を見てるようなかんじだった。実際には「五歳の他人にいい夢を見せるべく宮崎氏ががんばった映画」だったのかもだけど、そこの区別も曖昧だ。経年劣化で頭が固まってることもあって、他人の夢に自分の感想とか持ちようがないんだ。どう書いても下手糞な夢占いみたいなザマになる。

ので、やっぱ「おもしろかった」で保留。ポニョ関連の(?)、(鑑賞前)Twitter ログなど再録してお茶を濁す

  • ポニョ関係のネット反応で一番おもしろかったのは、「失踪外人ルー&シー」の「崖の上で AGAKE」という日付タイトル(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20080711)だったな。
  • ポニョを見に行きたい気分って、ジブリアニメとかいうよりは、「すごい自主制作アニメを見に行きたい」みたいなかんじで不思議だ。公開直前まで全然知らないタイトルだったからだろうか。
  • スカイクロラを見に行くモチベーションはゼロなのだけど、見たほうがいいのかなーという気分が微妙に高まっている…けどおれもはやおっさんだから「若いひとに見て欲しい」という押井氏の意図には協力できる立場にないのが心苦しい。そんなにファンでもないんだけど応援はしときたいけどできない感?
  • 押井氏ファンの人々といえば「最近の押井氏作品を延々くさしつつ「見ながら寝た」「おれは半分くらいで寝た」「おれなんか最初の五分で寝た」とか睡眠自慢しつつ押井氏の現実と仮想現実がうんたらかんたらのループを延々焼き直してるんだという話を焼きなおしまくっている」という印象だけど。今年ばかりは「スカイクロラ見た?」「うーん、やっぱり寝た」「寝るよねー」「押井はもうダメかもわからんね」「あれ?それ明日の分のチケット?また見に行くの?」「いや、最近寝不足でさ…見に行けば寝れるから…」「じつはおれも不眠症なんだ。付き合うよ」みたいなかんじでお布施しとるんかなー。

作画はとにかく凄かったので BD は当然欲しい。あと本作の感想とは関係ないけど、ジブリ社つながりで「猫の恩返し」の DVD を買おうかどうか最近悩んでいる。素晴らしいとか感動的とかいうんではないかんじだったけど、「らき☆すた」的なヘビーローテ材として確保しておきたい一本なのだよな。優先順位がどうにも高くならないので手に入れないんだけど。たぶん買ったら延々見流すことになると思う。

Geometry Wars : Retro Evolved 2

Pacifism モードのなにがおもしろいのかというとー、妄想自由度が高いという部分かな。アンティークなビデオゲームはスペック的な事情によってアブストラクト一択だったわけだけど、レトロ(=新しいんだけど古い雰囲気を作っている)なビデオゲームの場合は「何でも描ける時代に敢えてアブストラクト」という選択だから、同じ状況設定ではない。アブストラクSTG 全般的な傾向として「アンティーク:ストーリーや設定がちゃんとある」「レトロ:ストーリーや設定が存在しない場合がある」みたいな区別がある気がするな。

もうちょっと噛み砕く。往年はグラフィックがチープなぶんだけ補完要素として、ストーリーや設定などを便利に活用していたという事情もあって、それらが存在しないということはほぼない。対してグラフィック性能的に不足がない世代なら、ストーリーに相応しいグラフィックを付けると必然的にアブストラクトな雰囲気から遠くなり、一方敢えてアブストラクトな雰囲気を選ぶ場合は「その雰囲気に合った(主になんかサイバーくさい)ストーリーをつける(例:SANVEIN や Rez など)」みたいなケース以外に、補完要素などつけずグラフィックそのままの「想像力を働かせないのが逆にイイ」みたいなかんじにまとめる路線が出てくるというか。これもまたひとつの「逆にアリ」の方向性か。という意味で、背景のないアブストラクトゲーは「新しいゲーム」といえそうだ…けど、どうかなー。インベーダークローンの電子手帳ゲーとかの移植モノとかだと、ストーリーとか特にないやついくらでもありはしたか。「とにかく宇宙からの侵略者をやっつけるゲームですので」みたいなメタ感覚。

ともかく、抽象グラフィックはそこに妄想の余地を生じさせるという性能が本来的でもあるわけよ。で、Pacifism はそこいらへんで妄想がやりやすい。というのは、数学的な空間が宇宙や銀河であったり、自機が女性型アンドロイドが乗っている人類最後の希望の宇宙戦闘機に見えたりするとかいうゲーム世界に対するそれではなくて、ゲームルールに対して生じるシーンイメージの想像力で、この応用範囲が広い(もちろんイメージを自由に当てはめるため「公式に明確なストーリーや設定が存在しない」という前提条件は重要)。Pacifism は「弾を撃てない」「ゲート通過時に生じる攻撃判定で至近距離の敵だけ倒せる」というルールで、これっていわば「勝負の機(=ゲート)」の可視化なのだ。自機・敵集団・ゲート群という三つの位置関係とベクトル、距離感。敵群をどう誘導して、ゲートをどのタイミングでどう使うか。その時空間の推移に対しては、ほとんどあらゆるストーリーを当てはめることができる。ゲート通過は文字通りのブレイクスルー。淡々とイベント消化しとくか山場として盛り上げるかはプレイヤ次第。自機の軌跡が、そのまま山あり谷ありのストーリーラインとして当てはまる。あるときはスラムダンク、あるときはガラスの仮面、またあるときは頭文字 D、はたまたあるときはママレードボーイ、とかなんとか、なにせ抽象的だから「さっきのはドラゴンボールでいうとベジータ戦くらいのピンチだったなー」とかそういう当てはめが。

で、そんなこんなあれこれ妄想して遊んでいるんだけど、だんだんそれも剥がれ落ちていって、最終的にはまったくなにも考えずにただ記号としてのグラフィックだけを目で追っている状態になる。誘発された雑念が電子の海に溶けて脳が解放されていくかんじ。「風呂入ってサウナ入ってからもう一回風呂に入ってる」ようなかんじか。ゲーム脳ってこれかなーみたいな。