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人差し指を立ててしゃべるひと

らき☆すた

最近改めて「らき☆すた」を見ている。なんでそんなことやってるのかというと、「ひととおりブームが過ぎたあとで改めて何度か見てみよう」と思っていたからだ。といっても、そうすることでなにか新しい発見が期待できるというかんじでもない。らき☆すたがブームの頃でも、結局おれはそのブームにきちんと乗ったうえで見ていたわけではないからな…。

でもまあ、当時見ていてちょっと気になっていて、そのまま忘れてしまっていたことなどを思い出す、程度のことは起こる。そのひとつが、「人差し指を立ててしゃべる」ポーズの違和感だ。らき☆すたの場合、結構人差し指を立てて喋ってるカットが多い印象。気になる。これねー、漫画だと結構見るポーズなんだけど、日常生活で実際にやってるひとを見る機会はほとんどない。つまり「作品表現上で違和感を殺そうとして出来上がった、実際には違和感のあるコード」のひとつということになる。「オタクにだけ通用するカッコいいポーズ」問題とも無関係ではない。ごく稀に、実際にこのようなポーズで喋るひとは居て、おれの経験上そういうポーズでしゃべる日本人の九割程度は、(そうした漫画コードの影響下にある)オタクだ。漫画を規範として喋っているわけだね。アニメやゲームの影響下で、好きなキャラクタの名台詞だけで会話したり、あるいは自分のアクションに一々くち SE をつけたりするオタの同類というか。世界情勢とかを報じているようなニュース番組では、あきらかにオタク影響圏外に居ながら、人差し指を立てたポーズで喋るひとを見ることはあるんだけど(海外の宗教指導者のひとたちとか)余談。

これあくまで漫画のコードで、暮らしはもちろん、アニメでも違和感があるというわけなんだよね。漠然と「人差し指を立ててしゃべる」の状況がありがちの漫画を想定すると、たぶん学習漫画四コマ漫画、商材漫画などで多く見ている気がする。共通点は、コマが比較的小さく(顔+指先程度の演技の幅)、解説的な台詞が多い状況で(フキダシが尚更紙面を圧迫する)、なんとなく手持ち無沙汰の(会話中心で変化に乏しい)キャラクタにつけとく適当なポーズの一例として、みたいなかんじかと思う。指立ててると、ポイントを押さえたり、カウントしていたりするみたいなニュアンスも持たせることができるし。ふつうのアニメでは、そういう工夫はあまり必要ない。「らき☆すた」が(アニメ表現としては結構違和感のある)そのコードに従っているのは、やっぱ原作が四コマ漫画だからなのかなーと、気になっていた(なお、ナデシコとか典型例だけど SF モノのガジェット解説シーンなどで説明役のおねえさんとかが人差し指を立てるのは、「実写の教育番組のパロディとして」のコードだと思うので四コマの場合とは筋が違う)。

で今回原作を一冊だけ借りてちょろっと読んでみた。あー人差し指立てて喋っとるわ。そのまんまだ。だからか。ていうかエピソードもかなり忠実にアニメ化してるんだなー、これがさすが京アニですねってやつなわけかー、とか思った(いままでまともに原作読んだことなかったので、そのへんもわかってなかった)。原作忠実でオリジナル要素があまりない。アニメのオリジナル要素っていうと、小話前後の雑談のフレーバーとかになるんだろうか。アニメ版では、かがみ達が四コマのネタに入る前の雑談として、匂いの話(というより、なにかがくさいという話)をよくしていることが伺える。たぶんこれは漫画ではあまりない要素なんじゃないかな、それとも、そのへんも原作にあるのかなー。あるのかもなー。さすが京アニですねだからなー。

明文化されていない流れに乗れるかどうかがオタクの分かれ目

昨日の OFF 会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080524#p3)の個別感想というか。A さんの、会話への参加スタンスを見ていて、なるほどなあと思ったことがあったのでメモ。A さんは、以前の日記でも書いたが(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080203#p2)、「勉強してオタクになった」タイプだ。というよりも、彼がオタクの勉強をはじめたのは大学以降だというから、いままだ「オタクになりかけている」状態といえる。そういう彼が、まるで生まれたときからオタクでした的なツラをしているその他の面子とのオタ会話の中で、どういう振る舞いをするのかなーと見ていると、まあ自分がわかるジャンルについては反応し、わからないジャンルはスルー、というのはいいんだけど、どうもそれだけではない ON/OFF の区別があるようだなーと気になった。で、「オタクにだけ通用するカッコいいポーズ」問題の話になったときにようやく気付いた。彼が反応できるオタ話の基準として、「わかる / わからないジャンル」以外に、「そこに既に文脈がある / ない」があったのだ。

たとえば、アニメには文脈がある。ゲームもまあ、相当複雑だけど一応ある(人文系でいうとエロゲー語りとかでは一部分やたら詳しく流れが存在したりもする)。漫画には結構しっかりしたものがある。研究者とか専門家とかプロのライターとかが、きちんと調べたりじっくり考察したりして作った文脈は太く深い。ネットで馬の骨の我々が適当にいってるような文脈は、か細く網の目のように分岐合流を繰り返す。そのようにして作られた文脈に様々な乗り手が加わって、大きな流れを形成していく。大文字のジャンルについては、既定の文脈は大概あるといってよい。細分化した専門ジャンルだと、あったりなかったりするが、「いまはまだないけど形成待ち」とか「細かいことは分からないけど多分こんなふうになるんだろ」的な大筋はなんとなく把握できたりする。でも、これがたとえば「オタクにだけ通用するカッコいいポーズ」みたいな、ジャンル横断的な連結の上に仮構された、およそ固着しそうもない時代の泡沫というか、シーンの枝葉の切れっ端みたいな現象についての文脈などは、ほとんど存在しないものといってよいわけだ。

A さんはオタク勉強の手順として、おそらくは「大文字の文脈に沿ってコンテンツを押さえる」ということをやっている段階だ。勉強の過程で新しい補助線を見つけたりもするんだけど、既定路線に大枠はガイドされていて、そこから大きく外れていくことはない。そして、その途上にいるオタには、「まだ誰にも規定されていない文脈」が感覚できない、ということになる。だから、A さんは反応できなかった。なんの話をしているのかよくわからなくてポカンとしているかんじ。これなー。結構新鮮だった。おれがオタクとして詳しくないジャンルは一杯あるけど、オタクそれ自体「でなかった」時期は相当過去のことになってしまっているので、オタセンスが一切利かない領域があるものとしてのものの見え方とかについて、想像力がしぼんでいたと思う。

まあこれ、アカデミズムのひととかが一生懸命やってることなわけだよね。もうちょっと俗な話に落とすと、たとえば我々ボンクラが時事問題を語ろうとしても(時事センスが全然ないから)漠然とは語りえず、報道メディアとかにいろんなアングルをつけてもらってはじめてそれを議論することができる、みたいなかんじ。選挙がどうとか、法案がどうとか。文脈を規定してもらわないと、取っ掛かりがなさすぎて絡めないのだよね詳しくないジャンルについては。まあボンクラはそもそも政治など語らないのだけど余談。話を戻して、コンテンツを意味づけするためのコンテキストを整備する、というのは価値のインフラ事業だ。学問にでも商売にでも、それは最初に必要となる。オタ同士でやってるぶんには、互いにそれが自明であるから明文化する必要がない。でもそれだと部外者には理解できないままで終わるし、流れに関与するひとの輪がひろがっていかない。だから、オタにとっては自明のことを、改めてオタじゃないひとの言葉で明文化してゆく。現場主義者からみて「なにを今更」「愚鈍なことをやっているなあ」的な視線を受けながら文脈を舗装し、そのあとに来る文化的ななにかみたいなものを迎え入れる。A さんは、そういう舗装道路に乗ってやってきた新参の一人なのだろうし、また、新しくまだ文脈の存在していないなにかに、文脈をつけていく役割を担ったりもするのだろう、それはオタク全然関係ないことについてなのかもだけど。とか思った。