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DEATH NOTE

L

全部読んだ。おもしろかった。

  • デスノートは第一部の評判がよく、第二部はあまり評判がよくない。たぶん第二部は「第一部よりおもしろくない」から批判されがちなのだろう。L というキャラクタが引っ張っていた部分と、あと L と月の相対による両キャラクタのマッシャップ感が良いという話だったろうか。
    • というかこの「第一部」「第二部」って区分けは公式のものだったのかな、それともなし崩し的なものだったのか。単行本読むぶんには別に第○部みたいに切り分けられてはいなかったので、よくわからなくなった。連載誌上ではどう説明されていたのかな。
  • おれが L が死ぬ第一部まででなく第二部まで買ってもいいかなと思ったのは、先に(第二部のまんなからへんである)10 巻だけを読んで「あれ、この巻読んでるぶんにはけっこうおもしろいな、第二部も(評判からすると)意外といいかんじなんじゃ」と思ったからだった。で、どのへんでそう思ったのかなーとあとで考えてみたら、「ライトの行動に疑いを持つ人間が捜査本部内に居るか居ないか」ということではないかなと思った。やはり背中見張られつつ抜け道を考える姿が似合っている男だよライトは。
  • 第二部のライトの序盤の冴えなく見えっぷりは異常。なんだろうかな、あのへんでライトがやっていることというのは、「対抗手段の打ちようがない方法で次々難題を仕掛けてくる謎の敵を相手に後手後手にまわる」という役回りで、それはつまり第一部で L がライト(キラ)を相手にやっていたことと同じなのだが、どうもいまひとつライトの場合は L ほどには「負けてるのに冴えて」見えないんだよな。単に視点の問題か、それともライトは思考がモノローグで読者にダダ漏れてしまうからか、それともライトは L と違って攻め攻めなキャラだから退却戦が苦手ということか。
    • ライトが二代目としての「L らしい表情」に見えたのは、10 巻の 77p からだった。
  • ニアが指人形を使って状況整理しているシーン、あれはよかった。あの醜い指人形に置き換えられることで、殺人者キラの客観的事実としてのグロさと見た目イケメンのライトとのギャップが出て、「ああやっぱキラこえーな」と自然に腑に落ちてきた。だからあそこは状況としてはニアの思考の整理だが、漫画としては客観的なキャラの整理というふうに読める。
    • 絵を見て腑に落ちるというのは、やはりここでもまた演出にだまされているということだが、漫画は絵に騙されたくて読むのだから、それでよかろう。
  • 読んだあとまたぞろ「太陽を盗んだ男」が見たくなった。あとはエルリックサーガとかもか。
  • ファンブック(13 巻)は、やはり買わなくてよかったなーと思った。

あと 13 巻には L の本名(本編では結局明かされなかった)を記したカードが封入されていて、まあ名探偵とはいえ神でも死神でもないただの人間の本名なんだから、べつになにか真新しいというか、(たぶん実在しないような綴りだろうけど)見て驚くようなことはなにもないとあらかじめわかってるんだけど、その「なんでもないもの」がレアリティを持っているってのはちょっとおもしろいなと思った。デスノートが、もしおれにとって消費したくないような想いを抱かせる作品だったなら、つまりたとえばこれはおれが中学校のときに読んで感動したゲド戦記が、あのときもし本編でカラスノエンドウの真の名が読者には明かされず、そして真の名を記したカードが封入されてあったとしたら、というような仮定だが、その場合であればおれはたぶん封を解かずにそのまま自発的には一生カラスノエンドウの真の名を知ろうとすることがなかったろうと思うが、もうあの頃ではないし、デスノートはそこまでの作品ではないがゆえにおもしろかったと思うので、ビリビリ封を破いてカードを見た。L の名前が書いてあった。この、どうということのなさを、まるで違う意味に変えてしまうというのが、作品の持つ見えない力というわけよな。

最近の読書

時代小説からいきなりラノベにいったんでは趣がない、のでここは一端 SF あたりを経由すべきだろう、という判断はあるのだが、どうにもこの SF に対する最近のおれの腰が重い。なんだ次は SF 体力問題か。具体的にいうと読もうかなと思って避けたタイトルが二つあって、ひとつが冲方丁マルドゥック・ヴェロシティ」シリーズ、それともうひとつ、こちらのほうがスルー歴長いけどグレッグ・イーガンディアスポラ」。「マルドゥック・ヴェロシティ」はその後にラノベをつなげることを考えたら悪くない選択だと思うし、ディアスポラは SF を経由するという考えのうえで文句ない選択だ。が、どうもなにかおれの中で重たいからなかなか手に取れていなかった。SF を読む前に気分のようなものを SF 向けにセットする必要を感じて、その準備がかったるかったというか。いやちがうな。非 SF 的な気分がおれ側にセットされてしまっていて、それを除去する手間が要る、というかんじだ。まだるっこしさだな。頭が酸化してゆく。

結局気合でイーガン「ディアスポラ」を買った。このままでいいわけはない。ハード SF なんてものは、どうせ最後さわやかに決まっているのだ。安心して読めばいい。どうせ毎ページ小難しいんだけど全部理解する必要はまったくない。それが正しく書かれてあることを信用して斜め読みすることも、ハード SF を朝晩の通勤読書に移植する際には必要な技術だ。イーガン氏作品は文字を忠実に追っていくとだいたいのイメージを脳内に再構成することができるようになっている描写が多いので、それを馬鹿正直にやることがまず目癖としてのイーガン読書の楽しみのひとつだが、いちいち全部それやってたら電車乗ってるだけ体力気力共にグッタリしてしまうからな。今回は「適当に読む」を心がけよう。

Wii を買いに行った 5

扱っておらず。ていうか池袋で買おうっていう魂胆がまずよくないのかもしれない。だいたいおれの周囲でいえば、欲しいひとにはすでに出回っているかんじだしな(新宿とか有楽町とかお台場とか地元商店街とかなんとか購入場所はとにかく池袋以外、「池袋で買った」という人間は一人も居ない)。ある程度苦労した(15 分並んだとか)とは聞くが、買う手段がなくて困ったというひとも居ない。買う気があるのに買ってないのはもうおれだけだ。まあそれはどちらかというと、買う気がある客(おれ)が居るのにもかかわらず商品を売る気がない店(と流通(とメーカー))しかないのが悪い、という理解になるのだが。まあでも任天堂社は SFC の頃から本体出荷台数調整に成功したことがない会社だったような気がするのでそこは仕方ないのかもしれない。おれ SFC 買ったことないのでよく知らないんだけど。そのへんも、枝葉の現象としては、行列を尊ぶ文化圏とは相性よかったりするんだろうかな。