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日記叙述トリック問題

渋谷駅 | 060506

同窓会で考えた場合にわりと具体的に納得しやすいのが「書いている側からすれば日記には当然書いていないことがあるんだけど、読んでいる側からすれば日記に書かれていることがそのひとのすべてとして映る」という問題(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060419#p1)。これはなんというかミステリにおける叙述トリックに近い現象かと思う。日記が文章であること自体の不如意の性能というか。わかっていても発生しがち。「web 日記者には web 日記に書いてある以外の日常がある」ことについて当然理解しているはずの web 日記者同士の会話上でもそういった錯誤は発生する場合がある。書く側からみた場合日記の主体は「日記された日常」であるが、同時に誰かによって書かれた日記はそれ自体主体として読まれるわけなので、文章以外を想定するというのが意外にむずかしいというか。これには weblog 以降の web 日記文化ではかなり顕在化してきた「記事か日記か、どっちでもあるような」みたいな問題とも絡んで複雑(文章自体が主体として読まれるのは元々自然なことだし、またそうされるべき記事も多い)。べつにその絡みあいをほどくべきだとも思えないので、まあ「こんがらがってるよね」という現状が正しく認識されてあればそれだけでよいという話ではある。

web 日記と同窓会

学生時代の友人とひさびさに会ったりすると、ネットが普及する前だとまあだいたい近況話を互いに一からやっていくうちに一次会が終わったりしていたものだったが、ネット以降になると web 日記というものが勃興してくるわけなので、わりと序盤から「その○○ってのはどうなのよ」みたいな突っ込んだ話になって「いやむしろ××が△△だからあんなふうになってんだよ」みたいな解説で互いの時間を潰すことが多くなった。で、この状況で「自分は web 日記を持っているが相手は持っていない」場合、相手は自分の近況をわりとよく知っているが自分は相手の状況を全然知らないという偏差が起きて、なかなかおもしろい。まあもちろん web 日記持っていても、相手がそれを知らなかったり、また知っていても読んでなかったりするとイコールコンディションなんだけど。

どっちのが便利だとか幸福だという話でもないのでアレだが、輪の中で数人だけが web 日記を持っているというようなケースでは、だいたいネタ振りの頭が「web 日記を持ってるひとたち周辺」に偏る。単純に、みんなが知ってる共通の身近なトピックというのがそこに集中しがちだからだ。まあ会話の流れなので発端がそこでもどう転がっていくかは場によるがしかし、なるほどこれが個人メディアの有無ってことなのかなとは思う。

Revolution → Wii

任天堂社の次世代機 Revolution の正式名が「Wii」と公表された。公式サイトとか見ると、この「Wii」というネーミングコンセプトは「mixi」とかと非常に近いことがわかる。まあ m が W になってあと i が人間をイメージさせて二つ並んでいて、掛け算が入るか入らないかといったアレだけども。「ウィー」という語感にも、アピールしてゆきたい層に向けた意識を感じさせる。やっぱどうにもこうにもこれからはコミュニケーションベースの時代ですよというアピールが政治的に正しいということかな。まあハードウェアの名前なのだから込められたニュアンスがそれだけのはずはあるまい。Wi-Fi の「Wi」も混じってそうだし、i はそもそも例のコントローラのシンボルでもあるらしいし。洗練しうる限り集約してあるのだろう。