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もっと世の中がハッピーになればいいのに関連

  • 皆が皆ハッピーに生きていれば、世の中にあまり諍いも起こらず、平穏に暮らしていくことができるはずだ。これはまあ「金持ち喧嘩せず」みたいな当たり前の話だ。おれの基本的な考え方のひとつである「おれの周囲の全員がおれよりハッピーなら、たぶんハッピーな周囲は相対的に困っているおれを助けてくれるだろうから、なるべくハッピーなひとに囲まれて暮らすほうがラクに生きられるだろう」とかもこのへんと繋がっている。
  • 皆のハッピーさが定常化すれば、激しい感情は人類到達点を越えた辺境をさらに切り拓く情熱や、あるいは趣味としてのみ発揮されるだろう。ところで「この世には実際には規則や法則はなく、それは内側の安定のすばらしさを知るものが外側との境界を築いたためにもたらされた」という感覚があって、なんらかの安定的な循環の、その圏外の風景を覗き見るのは恐ろしいことなのだ。たとえば安定した家庭がなぜ不安定な社会の中に維持されているのか、流動的な業界でなぜ毎月きまった給与が支払われているのか、音速の世界、地球の外側がいかなるものか、それを知ったうえで還ってくる内側の世界のやすらぎは、得難いものに感じられるはずだし、または自分が二度とそこにとどまり続けられないと気づくだろう。
  • 話が大幅に逸れたので戻すと、おれが追求していきたいと考えながらとくになにもやっていないのは内側の安定感のさらなる豊穣化だ。究極の自由というのはまさに次の瞬間にも具体的に即死しかねないという状況に身を置くことだと思うが、おれはそんな危険に身を置かず「究極ってほどでもないけどわりあい自由」な状態に身を置ければそれに越したことはないと思っている。で、それは、いっそ圏外の世界を覗くことよりもむずかしい(かわりに厳しくはない)。基本的な考えとして「生活を維持するために必要とするものには縛られざるをえない」というのがあって、たとえば金は必要だから金の事情に従属せざるをえないし、食糧もそうだし、空気だってもしかしたら今後従属したほうがいい。で、冒険せずにそうした様々の拘束具を解除していければいいなあという思考実験は、中学二年生的な気分を高めるので精神的アンチエイジングのためにもよい、が、歳相応の分別みたいなものからは遠ざかっていく。
  • …みたいな前置きはべつに要らなかったんだが、なんとなくおれは「友達はとても大事だが、その大事である友達が居なくてもおもしろおかしく生きていける空気の形成」と「ネットマナーから出発して暮らしに定着、やがて世界へ雄飛する失言アンドゥ機能の実装」ができたら、もうちょっと世の中ハッピーにならんものかな、と夢想している。まあ後者は悪用しまくれるかんじアリアリなので要検証だが。前者については、昨今の絆(しがらみ)ブームとかも相俟って、「友達の必要感」がいやましており、どうにも息苦しい。心を許せる、気のおけない、昔なじみの、友人たちを眺めるときに、ではなぜ友人ではない通りすがりのおっさんとかと、同じ気分を共有することができないのだろうか、できたら便利なのに、と思ったりするわけだ。まあ集合離散がかんたんになってくると、一局精算時の浮き分を溜め込もうとする小銭守銭奴的小市民気分がライジングしてきたりしてうまくはいかんのだろうかな。