中年オタの前に立ちふさがる恐怖関連
いまいち信じられんのだが、今って 2010 年なのだった。なんの努力もなく時間が経つだけで得られるスゲエ感ってのはあるな。このスゲエ感は「トランスフォーマー 2010」などが準備した。まあトランスフォーマー 2010 は、2006 年が舞台なのだけど。
おれの世代のオタは、まあ世紀末ムーヴメントとか核への恐怖みたいなコンセプトはありつつも、わりあいに「21 世紀へ向かった漠然とした期待感」みたいな眼差しで、かつて未来をみつめていたかと思う(というより、それなりに描かれてはいた薄暗い未来観よりも、より(かつてよりも猥雑さの加わった)眩しい未来観に、目を奪われていたような気がする。あるいは、どのようなディストピアが描かれようとも、そこには興奮やワクワク感があった)。だがどうやら現在の我々の年代は、フィクションには描かれなかった種類の、漠然と薄暗い未来を前に立ちすくんでいるようだ。未来はもはや、希望から恐怖の象徴に変わった。ようは、前世紀の我々はある日、世界が悲惨に転換するという恐怖を抱きつつ、目の前の日常を生きていたのだが、今世紀に入ってみると、まあ世界はそれなりに悲惨になっている気もするけども、それ以上のスピードで自分が悲惨側に滑り落ちてゆく恐怖と向かい合っていかねばならなくなってきた、というかんじだろうか。世界がー!世界がヤバい!いや最終コーナーまわって大外からおれがー!おれがきたー!みたいな。
おれ自身が、いまんとこ「未来が怖い」という感覚を持たずに済んでいるのは、おれがとてもラッキーでハッピーで、ついでにあんま幸福感に浸る暇を持たずにこれまで暮らしてきたからだろう。やがては追いつかれ、肩を掴まれる日が来るのかもしれない。まあ、そのような感情は、オタに限らず人間が中年を迎えればどの時代にも誰しもが味わうものなのかもしれない。だとすれば、これまでの皆にできてきたことならば、怖れるのには値しない。たぶんできる。または、できなくとも、かつてできなかったやつがこれまた大量に居たはずだから、それにはそれなりの道筋がすでについているのだ。