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「ちかごろのオタ小説で、挿絵で美少女としか判断できないキャラをわざわざ本文中でも「美少女である」ってわざわざ書くのは何なンだよ、おぉお?!」問題関連

「デュラララで描かれる池袋はオサレシティなのかよ」問題からの脱線。先日書いた(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20100303#p1)とおり、おれはデュラララ作中の池袋を、とくにオサレシティとして描かれる意図はないものと判断したわけなんだが、だからといって「だからデュラララで描かれる池袋はオサレシティではない」と断じることはできない。のはなぜか。という話に、「ちかごろのオタ小説で、挿絵で美少女としか判断できないキャラをわざわざ本文中でも「美少女である」ってわざわざ書くのは何なンだよ、おぉお?!」みたいな 90 年代的問題意識が絡んでくる。だがこれは所詮 90 年代のものなので、00 年代も終わった現在にはもはや失効しているといっていい(「あえてブスキャラ」というアプローチなどオタジャンルにおいても 90 年代後期からはじまっていたし、00 年代は属性「普通」も定着し、オタ作品に登場するキャラクタの容姿問題は、もっと多様な問題に分化して全体としては安定している)。けど一応掘り返すのは、おれがおっさんだからだ。

  • 「美少女にしか見えないものを指して「美少女である」宣言する」みたいなクドい重ね塗りは死ねという感覚から導き出せる妥当性のある表現は「自明のものこそ表現しない」ということになって、それは「この緊急時になんでこのキャラは解説君に徹してんだほかにやることや省くべき手順があるだろ」的な設定オタ的自意識と化合し、わざわざオサレ演出しないからこそオサレ、という読み方(世界住人からわざわざ触れられないからこそ、それは世界において自明なのだ、という解釈)の妥当性を補強していく。
  • まあ「ちかごろのオタ小説で、挿絵で美少女としか判断できないキャラをわざわざ本文中でも「美少女である」ってわざわざ書くのは何なンだよ、おぉお?!」問題は、単に「小説に挿絵が入ることを前提とする以前の旧来的な工程で生じた盲腸的表現だった」とか「美少女以外の少女を書くオタ絵文法があんまりないので、挿絵で美少女とそれ以外の区別がつけづらい」みたいな事情の産物という話もあって。
  • あと見た目では区別がつかない美少女のなかから、特に区別される属性「美少女」は、ストーリーの重要人物であるという「美」と全然関係ない属性を示す、という副産物的な演出として受け取れもする。美少女であれば、この話に関係がある、という不文律みたいなもの。で、実際には「かわいいけど全然重要じゃない人物」てそのへんにゴロゴロいるよね、みたいな問題意識の萌芽には、たぶん我々は 00 年代を待たねばならなかった。
  • まあそこはひとによるのか。かわいければ重要だ、みたいな考え方ってありそうだし。でも美醜判断はひとによるところだから、何なら美少女なのか、という判定はブレる。小説における「美少女である」という絶対的な定義付けほど強くはない。

…いやそこで空気の出番か。「クラスのアイドル」みたいなストーリーの共有。いやでもそんなのも随分レガシーな世界観だわな。