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C さんを囲む会

C さんを囲む会

上京中の地方サブカルの C さんを囲んで駄弁りましょうという会があったので参加した。おもしろかった。C さんとは、文学フリマ前後以来ということになる。部分的にメモ。

  • ライターと評論家と批評家の区別がつかないので、どうやったら区別できるのかを聞いた。小林秀雄氏リスペクトなら批評家、でいいらしい。
  • もうやんカレーに行ったのだけど、鴨あぶり焼きをやっておらずガックリきた。ドライカレー普通盛り二辛で。鴨がないならアルコールに用はなく、グラスビールは頼まず。
  • 地方サブカルの C さん、人文系の A さん、奇人ファンの S さん、インターネットのひとであるおれ、というかんじの集まりに。それぞれ個別事情を抱えつつも、皆さんおおむね相変わらずそうでなにより。春の手前の最後の季節なのかもしれないが、それならそれで。
  • 昨年末の約束どおり、そろそろ A さん宅に遊びに行く会をやりましょうという話をした。P さんが忙しくて今回も来れていないので、もうしばらく先なのかなー。
  • もうやんのあとは、サンシャインシティのスタバにでもいこうかと思ったけど、安くもないし閉まるの早いし煙草も外でしか吸えんしで、サンシャイン手前の安めの喫茶店になった。そこで閉店まで駄弁る流れ。
  • たとえば用語「哲学」には「学問としての哲学」と「世間で言われる「人生哲学」みたいな意味での哲学」の二つがあり、用語「美学」にも「学問としての美学」と「世間で言われる「男の美学」みたいな意味での美学」の二つがあったりして、インターネット議論は、それらを敢えて混同させることで世界観闘争圏を広げたり、区別できないまま取り扱ってしまうために誤配したり、区別を示して立場を強化したり、いろんなひとたちが状況を便利に活用するので、じつのところなにも理解しておらず今後も理解する気がない人間にとってかなり居心地のよい環境ということに、結果的になっているのだけど、自己完結やポジショントークや、単なる毛繕いを超えたところ、つまり他者を理解しようと努力したり、相互になにかを建設すべく歩み寄ろうとするような話をしようとすると、かなりやりづらい泥濘になっていて、めんどいのだけど、C さんは今から敢えてそれをやろうと悪あがきしていて、偉いなあと思った。
  • 教室の中心と窓際の相関、共同体の中と外(というか教室内に外というのは無い)、「正当なもの」というのは共同体の内側に生じるけど大概の人間にとってその正当性自体はどうでもよく、したがって輪に対するプレゼンスは同心円上のどの位置に居てもそれなりにやりようがあって近ければいいというものでもない(が、それは都合のよさと抱き合わせの厄介さを抱えている)、価値はコミュニティ内に流通することで強化されるが、コミュニティを超えたところにも通じていくことに意味があるというタテマエみたいなものもわりと有効、みたいな曖昧な話をした。
  • 新城カズマ「サマー / タイム / トラベラー」の話をちょっとした。ヒロインに置いてかれてるのか置いていっているのかという感覚については、読んだときの気分とか状況によって変化すると思う。あと 2003 年当時に高校生だったひとにとって未来は明るかったか暗かったか、みたいな話を聞いた。大勢としてはおれらの頃とさして変わらないのかなとも思った。おれの高校の頃の「未来はなんとなく明るい」てのは、かなり自覚的なアッパーさというか、「あえて乗る」みたいな気分ではあったのだよね、という話をした。具体的にいうとー、たとえば往年の GAINAX 社作品とか見ると、アッパーな科学万能観みたいなものが描かれたりするんだけど、描かれ方がすでに「科学にできないことはあります」という部分を織り込み済だったりするわけなんだよね、「王立宇宙軍」でのシロツグとリイクニのすれ違いとか、「トップをねらえ!」のウラシマ効果とか、「不思議の海のナディア」のフェイトさんとか。そういうものを受けて、なるほどうまくいかないことはあるだろうとしたうえで、「それでもやっぱりおれはこっちを選ぶぜ」的な気分によって、なにかを選択した、という気分はあったと思う。勝っても負けてもなんでもよくて、とにかく何かに賭けないとはじまらないから、「信じる」とかではなくて、「とりあえず選ぶ」というかんじだったんじゃないかなあ、みたいな。

とかなんとか。