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バーチャル自殺界隈

自殺ガチ勢の話は重たいので、主にバーチャル方面のあれ。

  • 原則として他人というのは損得だけの関係で、損得だけで自殺を止められてもあんまりうれしくないだろうから、たぶん他人に自殺を止めてほしいひとはあんまり居ないし、またなるべくなら死んでほしくないかなあと思うようなひとは、それは他人ではないということになる。まあそういっても「いまここで死なれると迷惑なんだよねー、どっかほかの機会にやってくれ」みたいな言い方はあるか。あと強いていえば「周囲で他人の自殺が起きてほしいかどうか」というエゴ判定によって、大概のひとは周囲の他人の自殺を止めるだろう。まあ自殺を止めて欲しいひとの大概も、公共性でなくエゴによってこそそれを止めてほしいのだろうから、そのマッチングが不適正だとは思わない。本当には、他人かもしれない境界線の外側のひとからの「おれは他人ではないからあなたの自殺を止めたい」という言葉を求めているのかなと思うわけだが、まあその感じ方は叙情寄りすぎだ。自殺はそんな面倒くさい話ではない。…てのは自殺ガチ勢の話だから、今回はその路線でいいか。
  • 友人知人に死んで欲しくないのはほとんど生理に近い感情だと思うが、エゴ的にこねくりまわせば「社会に根ざした情報系としての広義の自己には自分だけでなく周囲の人間との縁故が含まれるから、核から形成されたネットワークの一部(友人知人)が死ぬというのは自分の死と同じ」みたいな考え方もできる。そこいらへんで、友愛の精神とほとんど同じなんだけど「自分中華思想というか広義の意味での自己中精神によって友人知人にやさしい」みたいなアレが洗い出されたりもするかもしれないんだけど、今回そっちは余談。
  • 「発信したくないから死ぬ」勢だけは、一人で考えて黙って死ぬので周囲の友人知人含めて誰も自殺を止められないという意味においてガチ理論とかがある。暮らしの中でなら、「このひとそろそろやばそうかも」という客観的なセンスとかがある程度働くので(ふつう周囲にそんなひと滅多に居ないとは思うが)、それでもまだある程度止まりようもあるが、発信ベースのネット上では、発信がないこと自体によって自殺を未然に感覚するのは、よほどローカルなコミュニティでもないかぎりむずかしい。
  • 「おれ死んだほうがいいかな?」という点検作業のため、自殺サインを敢えて発して周囲の人間のリアクションを伺うという態度は、ギリギリの社会性として容認されていると思う。ただ、最近のネット事情でいうと、日常的に自殺をほのめかし続けるようなひとが周辺の疲弊を誘う事例などいくらでもあって、それがあまり意味を為さない状況になってもいる。実運用の偏りで意味が変質するってこんなかんじかなーという例のひとつ。
  • まあ「持ち合わせた表現力のわりに自己顕示欲をもてあますので、極大の表現手段として自殺を選択」勢だけは、社会動物として「黙々と社会貢献でもして寿命とか過労とかで死ぬ」のほうが上等だからそれは×、と単純にいうことはできそう。生きてるだけで負債なんですとかそういうのはあるかもだが、まあ借金雪だるまでも滅んでない国とかあるし、そういう悩みはそのての国がバタバタ逝きだしてから考えればええんちゃうかなというか。
  • べつに死にたくもなんともない構ってちゃんが、もうこれ以上他人に構ってもらうための持ちネタがないときに自殺を持ち出す(自殺連呼勢の増殖の直接原因はこのへんだろう)、というのもあるからややこしいよな。という話を逆に辿ると、他人に構ってもらうほどの内実がないのにその欲望が強いひとのことを構ってちゃんと呼ぶ、という話にもなりそうだけど。自殺シグナルの SPAM 化というか。といって SPAM 同様機械的にフィルタリングしてしまうわけにいかないのは、単なる構ってちゃんと本当に自殺寸前のひとの区別はかなりむずかしいっていうか、自殺を考えているのと、自殺を実行しようとしているのとでは全然違うけど、素人目にはなかなか区別できるものではないっていう部分があって。
  • あと自殺界隈では客観視が無意味で、それゆえ極めて対応難度が高く、疲労しやすい。自殺ってこれ以上ないくらいプライベートな話だから、必然的に「相手の身になって考える」という態度以外ではコミットできない。とくにバーチャル自殺界隈においては大半が心の問題で、身体や環境がどうのといった話ではないので、客観的にはなんとでもいえてしまう部分が大きくて困る。これがたとえば恋愛話とかだったら、それはまだ社会性の話だから、関係性について示唆したり、あるいは乱暴に恋愛観の話にまるめたりとかラクな方法はあるが、自殺を考えてるところに一般論持ち出しても意味がないというかな。世の中がどうでもそのひとの死にたい要素や基準は個別だから。オタクが一般論を好むのはそれがラクだからだし、人生が面倒くさいのはそれが個別状況だからだが、自分以外の個別状況へ踏み込んで考えるっていうのは、それはなーなるべくやらずに済むにこしたことはないというかな。まあひとの縁を避けて通ってばかりでもつまらないのもまた人生という話に落ちてしまうか。属性の自己承認化とかバーチャル自殺界隈とか恋愛とかコミュニケーション問題とかプチ自己啓発とか、生まれた余裕にありったけのコストをぶち込んでしまう習性はやはりエコノミックアニマルの末裔だからか。

このへん実の話としてはおもしろいこといっこもないので、いっそ落語とかでおもしろおかしく笑い飛ばしていただきたいような気もする。八っつぁんと熊さんが死にたくなって横町のお師匠さん宅に相談に行くみたいな。