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謎の彼女 X

謎の彼女 X

植芝理一氏の、現在も連載中の漫画。これはだいぶおもしろかった。借りて読んだけど自分でも買うかもしれない。読みながら、なんとはなしに吉田アミ「サマースプリング」のことなどを連想した。この二つの作品に関連性があるのかといえば、ぜんぜんないとも言えるし微妙にあるとも思える。とかいうのは両方の作者のひとに失礼な見方なのかもだが、そこいらへんについては考えないことにしているので、置いとこう。「サマースプリング」読んだときおれが感じたことをまとめると「困る!」に集約されるのだが、「謎の彼女 X」は読んでも全然困らなかった、というのは大きな違いといってよく、そこが違うのだから、全然違うのかもしれない。少年や少女の話ではある。「サマースプリング」は少女の話で「謎の彼女 X」は少年の話だ。「サマースプリング」の少女は少年と出会ったりしなかったが、「謎の彼女 X」の少年は少女と出会った。「サマースプリング」の世界は息苦しいが「謎の彼女 X」の世界はボンクラだ。おれが「サマースプリング」を読んで困ったのは他人の人生と向き合うっていうのはわりと大変なことだと思っているからだが、「謎の彼女 X」の場合はそれを読んでも特に漫画の中の誰の人生とも向き合う必要がなかった。人生と向き合うっていうのは、人物と向き合うわけではないから(それはまあ本と人間が同質のなにかとして向き合うわけにもいかないのである)、視線の交錯とかの話ではない。なんかむずかしいなこのへんの話は。といってべつに「謎の彼女 X」を安全な漫画だと思っているわけでもない。これにはこれでなんか面倒くさいことが描かれてあるような気もする、植芝理一氏の問題意識のことが理解できたことはないので、よくわからないが。

あとはー、大雑把にいうと「サマースプリング」読んだあと「謎の彼女 X」を読むと「女はいろいろ大変だなー、男は特に大変じゃないのでラクでいいなー、おれは大変なことはなるべくやりたくないので、男に生まれてほんとによかった」というようなことを思う、これは大袈裟にいえば「火垂の墓」を見て自分があの世界の住人でなくて本当によかったとホッとする、という心理にも近い、ただし当然そこにはそういった自分の心理の都合のよさに対する後ろめたさみたいなものがあって、あまりホッとしてばかりもいられない。この感覚は、少年がボンクラに描くことを許されることに対する後ろめたさみたいなものに通じていって、漫画や小説を読みこなしていくうちにだんだん澱のように溜まっていく。いずれ整理しなければならないことなのかもしれないが、できることなら未整理のままやり過ごしたい気がしないでもない。