河童のクゥと夏休み
原恵一氏最新作。みてきた。おもしろかった…が、いまひとつ。いろいろ詰まっているんだけど未消化というか、いろいろな問題がある上をサラリと撫でてさわやかな風が通り過ぎていきました的なアレなら、それはそれでよかったんだろうけど、本作では個々の場面で描写をそれなりに追求しているので、なんか引っかかるものが多いんだけどつながっていかないなーという印象を受けた。クレしんの枠内でやるだけのことをやったときはうまくいったが、枠を外して好きにやっていいことになった今回のほうが案外雑多な制約が多くて苦労した、というふうにも見えた。次回作に期待。
- 根本的に、これはクゥの話であって人間主人公の話ではない。大きな枠としてはそうなっている。「河童のクゥと夏休み」は大長編ドラえもんやハリーポッターシリーズと同じ規則での「○○と△△」の命名ルールと思ってよい。主体の○○に「河童のクゥ」があり、△△にあたる「夏休み」は人間側の主人公の一季節を切り取っている。通り過ぎられる側だ。が、比率でいえば客体の事情のほうが多く描かれることになるわけなので、視聴の気分として、主体があっちに行ったりこっちに行ったりして、ちぐはぐな印象を受けた。
- 主人公一家の家族構成(父母兄妹)はクレヨンしんちゃんと同じで(ただし、クレしんの年齢設定からは数年ズレている)、それぞれの性格と関係性もクレしんを色濃く感じさせるかんじで、どういう意図でそうなったのか気になった。まぁおれにしてからが「クレしんオトナ帝国&アッパレ戦国の原恵一氏の最新作」として見に行っているわけなので、あんまアレなのだが。
- オタとしての欲望としては、クレしん以降の原恵一氏作品として、クレしん以外型の家族構成を予想していたので意外でもあった。いつごろからワード「河童」とワード「少年期」の親和性が高まったのか覚えていないが、ともあれ不思議生物との一時期の出会いを通して淀んだ暮らしではいまひとつはっきりと得ることのできない何らかの確かさを補完してもらって、それでいい具合のマインドセットを得るんだ的な話はわりかし王道だと思っていて、それでいうとそもそもクゥはクレしんみたいに自給自足できてる家族でなく、アンバランスな(それこそ本作でいえばヒロイン役の女の子の家庭のような)家の子供に拾われるほうが、たぶん作品の形式としては「わかりやすい」と思っていた、のだが、そうじゃなかったんだよな。そのほうがいいって判断なのかなー、誰の、何にとって?とか、いろいろ考え込む。
- いや、そういうことでもないな。なんだそのー「これって要るのか?要らない気がするんだけど、いややっぱり、諸々考えると、要るんだろうなー」とか、あまりすっきりとシーンに没入させてもらえないかんじかな。人間社会の描写について、かなりの部分仕方ないんだろうけどガッカリさせられてしまうような部分が多くて(←べつにそれを悪いとは思わないけど世の中ってこんなかんじだよね的な意味で)、クゥはピュアー側かつクリーチャー側なのでそこに戸惑ったり理解しなかったり考えなかったりするんだけど、少年は、クゥと過ごしてよかったのかなーということを考えると、ちょっとむずかしい気分になってしまうが、べつにそこでピュアーが複雑を圧倒して「ありがとうクゥ」とか言って夕日に涙するようなわかりやすさなんか確かに求めてはいないよなという気分もありつつ。
- 作画面、クゥや動物の動きとかではポイントを押さえて力が入ってるかんじだったけど、人間はだいぶ残念なかんじ。宅急便のバンにひとが乗り込むときサスが沈まないのは劇場映画としてはだいぶショッキングだろうと思った。ただまあ「わかりやすい動きのよさ」みたいなものを追求しづらい話ではあったから、単におれが気付けていない努力はいっぱいありそう。あと、ヒロインの女の子が一人だけ諸星大二郎氏作品ヅラだったのが高ポイント。そうだなー河童だもんなー民俗っぽいかんじと大二郎ヅラは親和性高いわなーと、一人で勝手に納得してニコニコしていた。
とはいえなー、なんか足りない気がするんだよな視聴のための気分としてこちら側にいくつか。なので、やっぱり、未消化。
あと、映画館で先着何名様か知らんけども「キュウリのキューちゃん」の試供品をプレゼントしてて笑った。そうか河童といえばキュウリか。