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インターネット雑感

通信・ファイル移動 | 070816

漠然とした感覚のひとつを書き出し。

  • 「○○は質が低い」とか「○○は出来が悪い」とかいう文章は、「これを書いたひとは○○のことがキライ」という内容だと意訳されやすい。あるいは本当には○○のことがキライと書きたいときにそれを質が低いとか出来が悪いというアプローチで書くひとが多いのでその量に埋もれる。
  • 「○○はどうでもいい」という文章は、ほぼ間違いなく「○○は本当はどうでもよくない」という意味だと誤解される(ネットには本当にどうでもいいものをどうでもいいと書く文化はない、という認知)、あるいは本当にはどうでもよくないものを「どうでもいい」というアプローチで書くひとが多いのでその量に埋もれる。

ようは「相対化するのはひとの意思である」という話か。なぜ誤解されるのがまずいのかというと、望まない形で不利益がフィードバックされる、後々で不本意に説明コストが嵩む、責任を終えない波及の仕方をする、などなど。そこいらへんを遮断できそうなら、誤解されようがなんだろうがお構いなしという判断もできはする。

意訳や誤読を避けたいと思うなら、なるべく絶対的な記述を心がけるべきなのだろう。たとえば「A くんは B くんより身長が低い」でなく「A くんの身長は 165cm で B くんの身長は 172cm である」など。でもまあ人間普段からものごとを絶対的に見る習慣はそれほどないので、日常の延長で適当なことを書けば自然意訳や誤解を誘発する。あとマーケットシェア語りであるとか Hyde 氏の身長が何 cm であるかなどネットのしょうもないトラブル事例などみるに、数字の羅列なら問題が起きないのかといえばそうでもない。

意訳や誤読の可能性をふんだんに含んだ情報の流通こそを主体として捉えることは、電子ネットワークの使い方として優れていないような気もするが(どんな情報も片っ端から投げ込むようにしたほうが結果的に有意な情報がより多く遣り取りされるようになるという考え方は、有意な情報の割合でなく絶対量を優先しており、フィルタリング性能は必要に応じて向上しつづけるという信頼に裏打ちされている)、有意なことは機械に任せて人間が無意味なことにだけ没頭できるようになっていて豊かだというふうな考え方もできはする。あとコンピュータの使い方という点でいえば、シミュレーション以外の用途で使っても本来的でない気はしつつも、そんなのはビデオゲーム大好きっ子が考えるようなことではないなと思った。