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確率的な覚悟

差し迫る実体に対する覚悟はそう簡単に決まるものではないが、確率に対してならそれほどむずかしくない。おれの生活でそういったことを強く意識する場面のひとつは飛行機に乗るときで、つまりおれは搭乗待ちのロビーで毎回これから乗る飛行機が墜落して死ぬという仮定のうえで、もうすぐおれの人生がブッタ切られるとしてそれで満足か、納得して死ねる人生だったかと省みて、馬鹿か人生は有限なのだ、それは想像力と選択の有限でありまた時間的空間的な有限でもありまた可能性の有限でもある、いいも悪いもない、死は希望と同じく見えないけれどいつでも生の隣にある、飛行機に乗って死ぬこともあり死なないこともあるがそれはおれが選べる領分ではない、仮に死んで不満足でも納得いかなくともそれがおれの有限だったのだ、という意味合いでの覚悟をどうであれ決めざるをえない自分、というところまで立ち戻って、現実に復帰する。慣れたもので最近はテキパキとこの定型処理を済ませられるようになった。死が恐怖であることは当然で、恐怖は視界をゆがませるから、おれの世界観で飛行機は(それが滅多に落ちるものではないという、航空各社の整備努力の上に成り立つ確率の話を認めたうえでも)限りなく拡大された死のイメージと重なっている。だから、あくまで確率に対する覚悟ではあっても、軽く下せるものではない。ないが、同時にこの覚悟および死の確率は客観的にカジュアルな範疇に留まる。だから、おそろしさではあっても、やはりむずかしさであるとまではいえない。どうであれ結局、チケットを取った飛行機には乗るのだ。

もっとカジュアルな話でいうと「エレベータに乗るときの恐怖」がそれに当たる。おれはエレベータに乗るたびにビビッている。墜落死の恐怖だ。なにしろエレベータは日常的に乗るものなので、傍目にはあまりビビッているように見えないかもしれないが、機会の多量さによって態度が薄められているのに過ぎず、エレベータがたとえば飛行機なみに年に何度かしか乗らないような乗り物だった場合には、明白に緊張しているありさまを観測できるだろう。でもまあ乗ってる。怖いんだけど結局使うのはやめない。

ただ、エレベータの場合の恐怖感は相当現実から乖離しているなという感覚はある。つまり飛行機墜落の場合とちがい「どうなるのが怖いのか」という具体的なプロセスのほうに想像力が伸びていかないのだ。ていうか事故の場合でいえばいろんな手順を経たグロい想像ができなくもないんだけど、日常的におれがエレベータについてなにを一番警戒しているのかというと、結局それはどうも現実にありそうなほうのトラブルではなく、「エレベータの床部分だけがパカっと開いて中に乗ってるおれだけが落下する」という忍者屋敷的な恐怖なのだった。つまりこの場合、死によって恐怖が拡大されたというよりも、恐怖自体が不条理に拡大しておれの平常心を脅かしているというかんじか。手すりのついているエレベータに乗るとき、おれは大概それに片手を軽く添えている。床が抜けて落ちるイメージに、ぶら下がって助かるというイメージで対抗するためにだ。心の準備のプロセスが形骸化するなり順当に感受性が磨耗するなりして、いずれ手すりに手を添えなくなったとき、おれは内なる恐怖を克服したことになるのかなーと考えるが、たぶんそんなこと考えているうちには至れないようになっているんだその境地へは。