掃除洗濯
起きて昼、今日はいい天気だしオタ系のクラブイベントにでも行ってみるかなーと思わなくもなかったのだが、金がないのでやめて、長らくさぼっていた部屋の掃除に着手。ついでに洗濯。花粉と黄砂が心配だったが、ネットで花粉情報を見る限りはあまり問題なさそうだった。窓を開けて手当たり次第布類をボコボコ殴りつけて埃を出し、布団のカバーとかを剥がして洗濯、中身はベランダに干しまくり、ゴミ袋を展開してゴミとその同類を片っ端から放り込み、あいた床に溜まってる埃を掃除機で吸ってから雑巾がけ。終わらん。狭いのに無限にひろがっているかのようだ。いや違うな。狭いから使えるテンポラリが限られていて、なにをするにも手順が複雑化して段取りを読みづらくしているだけだ。ひとつひとつバラしていけばどうということもない。モノの密度が判断を鈍らせているのだから、ゴミとしてモノを捨てて減らしていくことによって効率は調整可能だ。
「生活が掃除を産むのではない。掃除によって生活が作られたのだ」
「誰の言葉ですか?」
「私の言葉だ。我々人類は原始時代の地獄より抜け出し、10 万年もかかってここへたどり着いた。しかし、ここはどうだ。根本的にはなにも解決されないではないか。若い頃は歴史家になりたかった」
「なぜ、ならなかったんですか?」
「部屋が汚れた。それで、掃除をはじめた。生活をゴミや埃の侵略から守るため、必死で戦った。しかしそれが正義などではなく、太古の昔から繰り返されてきた清掃の歴史をなぞっているだけである事もよく知っていた。哀しかったよ。いや掃除をしている事がじゃない。歴史を勉強した事がだ。掃除は破産するまで終わらないゲームなのだ。多分、まぬけな猿が始めたに違いない」
脳内で王立宇宙軍の台詞など読み替えつつ掃除掃除。目処をどこで立てたものかな。おれは掃除をはじめるとかなり熱中してしまう性分だが、一気に最後までやるには今日の体調は十分でない。腹も減っているし、半日動き続けるともたないだろう。こういうときは部屋を大雑把に「見えている半分」と「見えていない半分」とに二分して考え、「今日はまず見えているほうの半分を綺麗にしよう」と決めることで、作業進捗を可視化するのがよい(見える化)。全体像と進捗を可視の範囲に限ってしまうと、愚直に手を動かし続けるスタック型の作業でも時間さえかければどうにかなると割り切れるようになるんで、思考が鈍っている状況では心強い。もちろん本当は見えないところも徹底的にやらないと埃は払えないし、不十分なのだが、まあ見える範囲の清掃は部屋全部の清掃に対してかなりコストが低いわりに効果があるように「見える」ものだし、こうやってステップを設定して達成感を得ていくことで次回以降の掃除モチベーションも得やすくしておくのは悪い方法じゃないし(ライフハック)、なにより現実的だ。
けどまあしかしなんだか妙にモノが多いのも事実だ。たぶん同年代の成人男性からすればこれでも少なすぎるほうではあるだろう(なにしろおれくらいの歳だと家の一軒も持ってておかしくないやつだって居るわけだし)。が、おれからすればまだこれでも多すぎるな。だいたい似合わないんだよおれに財産なんざ。捨てちまえ余計なものは。手に余るものを引きずって、消化できない可能性の山を抱いて溺れ死にでもしたいのか。まあ数年前からちょっと余計にものを持ってみる暮らし方をしてみるかと試行してみて、その結果が今だから、ちょっと多すぎるってのはこれもまた受け容れるべき現状ということだな。捨てるという行為は快楽を伴うのだから、捨てることのできる余計なものを積み立てたこと自体には意味があったとしておこうか。
とりあえず洗濯モノを干し、ゴミ袋二袋ぶんのモノを捨てて、今日のところはおわり。