断片部方面の OFF 会に参加
昨日(というか一昨日)なんとなく徹夜しちゃって昼ウトウトするつもりが眠くなくて軽く仕事とかしてしまったので、まあ今夜(というか昨晩)は軽く GoW の対戦でもやって早めに寝るかなと思ったが、布団入りかけのネット巡回からの印象で、どうも今夜交流スペースあかねにはてなーのひととかが居そうなかんじだなと思ったので、サイト検索して出ている代表電話にかけて確認してみたら、なんとなくブルーシート活動とかのいつもの面子っぽいひとたちが集まっているというので行ってみることにした。主に E さんの失恋話とかがホットトピックとして語られることになるのかなとかそういう。夜から参加して始発前まで居て、前回同様高田馬場で朝マックを食って帰って風呂入って即寝りというパターン。休みだというのに無駄に二徹。なんかへんなリズムだ。
全般的には非モテがどうだ自意識がどうだおもしろければいいんだ社会がどうで革命がこうでだな、というようないつもの話だったが、E さんの立ち位置とマインドが失恋の効果で若干だが確かに変化しつつあるようにも感じられ、おもしろかった。けど顛末についてはあまり聞くことができなかった。
- 最近ネットでモテモテの F さんだが、ネットでモテても仕方ない
- 自意識関連
- 「プロ=ひとつの表現手段しか許されない」観問題
- わりと昔から気にしている問題のひとつ。より正確には「プロ=ひとつの表現手段しか許さない / 許容したくない意識」の問題(おれはオタなのでおれが作るフレームは基本的に消費者間のものだ)。結局場合ごとに、思いいれの分量とかでブレてしまうのだろうなと思う。
- 今回のケースでは、音楽をやっているひとが本を出してその中でいろいろ語っていることに対して、そういう主張は音楽活動の中でやっていくべきでないのかという話をしているひとが居たので、その態度の根拠は何なのだそれ以外の態度をとる余地はないのかという筋合いからちょっと話した。けど深く突っ込んだら筋違いになってしまうので適当に流した。
- 戻して、もとからの筋合いを書き出してみると…微妙な感覚の話なのだが、おれのような人間が田舎で育って都会に来るとき、というかモラトリアムを離れ大人になるべきとき、「自分が何者であるか」は必ず問われる問題となる。このとき働きがちの単純化として、たとえば「おれはコックです」とか「おれはプログラマです」とか、なんというか職能で説明する手っ取り早さみたいなのがあるなと思い、その簡単さに引っかかりを覚えた。もちろん「おれはおれです」とかいう言葉は自分と背景を共有しない他人に対する説明能力を持たないので都会的ではないし、もっといえばモラトリアム的でしかないが、問題はそちら側ではなく、「手っ取り早く△△の○○です」と説明すればいいんだと納得してしまった側の人間は、その「△△の」の部分に硬直化して、他者に対してもその関係性を強いていくんじゃないのかなという。それは、急速な都会適化(現地人のように時間をかけて自我を確立していくなどといった悠長なことをやっている余裕がない場合)の過程における未熟さではないのか。…というのが根っこにある。なんだろうかな、おれ特有の「おれが貧乏なのは事実なので貧乏生活は致し方ないが、というよりおれの貧乏さはおれの生得およびこれまでの暮らしの過程で獲得した「現在」そのものであるからおれ自身はそれを批評したり否定したりする立場になく、つまり認めようと認めまいと厳然としてゆるぎない「おれ=貧乏」はむしろおれの拠って立つ基盤だが、貧乏と必ずしも直結しない貧乏くささにまで甘んじなければならないとすればそれは耐え難い」に近いアレかもわからん。
- あと、これも微妙な話だが数年間主にネットでチェックしていたひとに「絵が上手いのでイラストサイトとしてそこそこ有名だけどそれ以外に作曲とかもしていて、でもプロとして無茶苦茶上手いかっていうとそうではなく、たぶん同人とかやればそれなりに大手とまではいかなくとも中堅くらいのかんじなんじゃないかと思いつつ、しかしどれかひとつに絞るとたぶんほかに上手いひとがいっぱい居る」みたいなポジションのひとが居て、あーこういう言ってしまえば中途半端なひとの居場所ってネット以外ではなかなか以下略。どれかひとつを追求するんじゃなく、なんとなく自分にあるモチベーションを適当に追求したりしなかったりしながら適当に死ぬまでやる、というのがオタクにあるひとつの道だと思っていて、そういう考え方でやっていくぶんにふつうなら(どれをとっても注目に値するほどではないので)世間からわりと放置されるんだけど(市場原理がシリアスなのは良いことだ)、そういうのをわざわざ否定しにやってくる類のひとが居る場合にはどうすればいいんだというようなアレが。
- もうちょっと一般化すると…、「器量型の衰退と才能型の蔓延に対するカウンター」なのかもしれない。こういうことだ、TV 番組とか見てると出演者にはいろんな肩書きがある、たとえばタレント、芸人、アイドル、スター、そのほか、そしてこれらの肩書きは二種類に区分できる、つまり「才能型」と「キャラクタ型」だ。タレントというのはまさしく「才能」を指し、芸人も芸で身を立てているひとであり、これらのひとは「私はコックです」というフレームで金を稼ぎものを食っている。対してアイドルやスターというのは、これはキャラクタだ。△△ができるから、というフレームで食っていない。○○というキャラクターである私が△△をしますよ、という部分のおもしろさで食っている。もちろんこれは「肩書き」という一面でみた場合で、現実にはタレントのキャラクター性がウケたりとか、アイドルの才能が評価されたりとかも当然あって、そこいらへんさすが芸能界は複雑怪奇にネットを絡めておもしろさの引き出し数を維持しつづける装置だなあと思ったりする。
- で、音楽のひとが文章で主張する(自己実現を音楽活動に集約しない)ことを容認できないのはなぜか、というところに乗せ換えると、才能型として売り出したひとの活動の、キャラクタ型へのシフトを容認しない心理なのかなとも思える、が、なんかちょっと違いそうだ。細かく分解してみよう。
- まず、職人は職能に徹するべき、というような美徳観がひとつ目にあるだろう。職業人の自己実現が、その職業上で達成されれば、それこそが個人と社会の優れて正しい和合であるはずだ、というようなかんじの。そういうストーリーは、筋が単純なのでわかりやすい。理解に要するコストが低い。客として面倒くさくない。あまり意識する機会は多くないけど、才能を愛することより、キャラクタを愛することのほうがコストはかかるものなのだ。アイドルやスターがキャラクタで売っていけているのは、それは手間や時間をかけて練り上げた、十分なインパクトを伴うパフォーマンスを打って、まずそのキャラクタを認知させることに成功しているからだといえる。そういう努力を前提としない場合、コストを要さない消費の仕方で需要できるコンテンツのほうが、より受け容れられやすいのは事実だと思う。
- 次に「昔からメディアでブロードキャストするという行為にはかなりのコストがかかるものだった」という問題をひきずっているんじゃないかと思う。メディアにのっかるコンテンツが上等のものであるべきなのは、それが数々の確率的能力的経路的な試練を潜り抜けてきたものであるからで、つまりブロードキャストされないものよりも見るべきものであるからこそ、それはメディアにのっかっているはずだという、願望と事実の混合物。これにもうひとつ「ある才能がものすごく飛びぬけた人間も、ほかのことではわりと凡庸だったりする場合は多い」という事実が加わると、「音楽がうまいやつは音楽だけやってればいいのであって、本とか出すなよ」になる。でもまあ最近はメディア自体が結構増えて単一のメディアの中も多チャンネル化して、わりと凡庸なものが確率的に露出しても問題なくなってきてないかと思わなくもない。もちろんものすごいものは、そのような時代にもやはり奮ってブロードキャストされるべきものであるとして。
- あとまあブロードキャストメディアに限って言えば、そこに乗っかっているコンテンツは「そのジャンルに興味を持っていないひとにとっても、それなりには見るに耐えるものであるべきである」という問題もあるよな。いろんなひとが見るものであるという前提と、いろんなひとから見られるべきものであるという意識の混合物。マスのものである / なければならない、という心理。
- もうひとつ、脳内イメージと実像とのズレを気にする心理か。音楽がうまい A さんのファンになったとして、でも A さんは文章を書いたらわりと凡庸で、という状況があったとして、A さんのファンの心理として「A さんの音楽面における才能はたくさん見たい、けど文章面における凡庸さは見たくない」というものがあるかもしれない。そういう幻想を引き受ける商売がキャラクタ型、そういう展開を抑圧されるのがタレント型ということか?
- 取引の有無と、自己申告とレッテルによる「余裕」問題
- 本名プレイ以外での活動に寛容な現行日本ネット社会において、ネット上のそのひとが暮らしのうえで実際どうかというのは知れたものではなく、まあその界面でドリフターズやっている人々が「夜のブロガー」ということになるが、今回はそっちの話ではなく、「余裕」感の話。あのひとはなんとなく余裕ありそうとか、あのひとは必死そうとか、俺様最強超余裕とか、自分には余裕がないとかそういう心理パフォーマンスのテクニック的な話。
- 表現はテクニックにすぎないと割り切ってしまうと、「なんとなく余裕がありそうに見えるひと」に実際に余裕があるのかないのかをネット上だけで観測することなどできない。同じく、余裕などなくても「余裕ありそうに見せる文章テクニック」でそのように見せることは可能。なので余裕にこだわるというのは些細な問題だが、まあ神は細部に宿ったりするらしいのでそれ自体悪いことではなかろう。ただ、細部に囚われるのは不幸だろう。
- 「本当に余裕があるひとは「おれは余裕ありまくり」とかわざわざ言わない」というのは真理だと思う。けどそれひとつで十分とも思わない。あと「余裕がないひとは他人の余裕の有無を気にする」もかなりの確率で真だと思いつつも、例外があるので、簡単には判断できないというかんじ。
- あと東京ブロガーのひとに「必死と真剣は違う」と言われて、なるほどと思ったことがある。都会めんどくさい。けどまあそこに糸口があるかなと思わなくもない。「どうでもいい」の処理(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20061024#p2)と絡んで、「どうでもいいけど必死にやる」という処理は筋が悪いけど、「どうでもいいことを真剣にやる」という筋は、ネット活動として悪くないかんじがするし。
- ネットで必死になりたくない場合遵守すべき基本ルールは「取引をしない」ってことだと思う。まあネットに限らずなんでもそうだ。パチンコに費やす金を月額固定にするとかにも近いか。欲をかいたり、失った(と自分が思っている)ものを取り戻そうとするとき人間は必死になりやすい。その場に限ってはプラスとかマイナスとかどうでもいい、という心理が平衡状態を生み出す。この場合自意識の話だったので、じゃあネットと無関係なところで自意識の基盤を経営しつつ、ネットではそれをやらないというのがいいんじゃないかという話になる。もちろん「取引をしない」も万能ではなくて、つまり取引をしないこと自体がマイナスだということになったときには平衡を崩される場合がある。まあそのへんの心理が醜悪化するとホモソーシャル的な美意識とか人生哲学みたいなものに昇華された(かに見えるがそうではない)「○○ってのはこうあるべきなんだよ」話になったりする。不条理に対する怒りと条理に対するルサンチマンを混同する愚は犯すまい。
- で、「本当に余裕があるひと」と「取引をしないという条件付けによって、ある程度自意識を開放しているひと」は違うのだが、傍目にはどちらも「余裕がある」ように見られがち。でも本当に余裕があるひとは取引の有無にもこだわらないので、そこを注意して観測していれば見分けることはできる。もちろん「取引をしないという条件付けによって、ある程度自意識を開放していたが、取引を持ちかけられて条件が崩れて必死になってしまうひと」とか「以前は余裕があったんだけど、取引に手痛く失敗してしまったために余裕を失ってしまい、必死になってしまうひと」とかも中には居る。特に「本当に余裕があるひと」の場合、そう見せる文章テクニックへの意識とかも希薄な場合が少なくないので、素直に「だんだん余裕がなくなっていくさま」とかが露呈してしまったりも。
- 「赤いピンクローターが」「赤いピンクってなんだよ」←レトリックさ by インベーダー・サマー@水晶の銅像
- E さんと I さんが大局から見て要点になりうる一局面における暴力の行使と価値の話をしていた筋合いから、力というのは最終的に実体を伴う暴力のことだが、20 世紀以降はソフトパワーがああだこうだして面倒くさくなっている、単純に暴力的なだけの強者は、それを行使することで味方を失い敵を増やしてしまって、トータルで弱者に陥ってしまうようになった(80 年代頃までの日本の左翼過激派とか)、とかなんとか、E さんが珍しくまともそうな話をした。
- 経済は正しい手段が目的を正当化し、政治は正しい目的が手段を正当化する、という話。
一方の輪では経営の話とか戦史研究みたいな話とか左翼的立ち位置と左翼活動の乖離の困難の話とかをしていて、もう一方ではモテないとか失恋とか人肌恋しさ問題とかどうやったら彼女ができるのか戦略戦術論とかそんなことよりモバゲータウンがだな的な話をしていて、その中間くらいの位置で眠気というより頭痛に近くなってきた徹夜脳と戯れつつボサッとしていかんじ、ああ自主的になにも考えていない状態なら、二つの話題を同時に聞き流すのはそれほど難しくないなと思ったりした。