署名議論と匿名議論のちがい
- 署名議論は「人」を基点として「話題」のネットワークが構築される(人同士が議論によって連結される)。匿名議論は「話題」を基点として「人」のネットワークが構築される(話題に対して人が群がる)。
- 大雑把にいうと、署名議論の主役は「人」であり、匿名議論の主役は「話題」である。
- 署名議論の場合「人」に集約して情報を整理したほうが効果的という話でもある(「誰が」言ったかが重要)。同様に、匿名議論の場合「話題」に集約して情報を整理したほうが効果的(「何が」語られているかが重要)。
- とはいっても、やはりどちらも人と話題のテンションで成立しているメディアなので、署名議論は人材が枯渇すると衰退し、匿名議論は話題が枯渇すると衰退するのかというと、一概にそうともいえない。ただ、たとえば議論のループなどの意味合いは署名と匿名で微妙に違ってきたりする。
- 署名議論の場合「自分の発言に対するレスがついたときに、それに対してレスを返す必要」を感じる、というような感覚は妥当だが、これをそのまま匿名議論にもっていくと筋合いがズレる。匿名の場合、そのレスはあくまで「提出された意見」に対する返信であって「それを提出した人物(自分)」への返信ではないので、「追補すべきと感じられる意見」がまだある場合に、適切にそれを提出する、という感覚で行われるべきだろう。また同様に、匿名の場合返信された意見の向こう側に「人物」を見通すことにあまり意味がない。
- 署名議論においては、突き詰めると「人間同士が議論することによって構築されていく関係」の価値さえあればいいということになり、「なにが話し合われているか」はじつはどうでもよかったりする(「良い人間関係」の価値)。
- 匿名議論においては、「人間に依拠する雑多なしがらみを超越して展開されていく議論」の価値が重要で、「誰が話し合っているか」はどうでもいい…というか、そこに人間がどう関与したかは問題ではないので、参加者個々人の視点で「話し合いとして成立していなかった」としても構わない(「良いログ」の価値)。
- 人間は人間なので、自分たち自身を最終的な担保として引き受けられる署名議論のほうが、原理的に馴染みやすい(良くも悪くも人間同士の結びつきは、人間にとって納得しやすいものである)。
- 学問のひとがあまり匿名議論をしたがらないのは、やはりそれが「最終的になにがその議論を引き受けるのか」が曖昧=途切れて無価値になってしまう確率が、署名議論よりも高いものであるからなのかなと思える。学問は無駄なく連綿と積み上げてきた成果だけが残っている世界で、今後もそこに積み上げていかなければならないものが多いから。