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空気と真空

紋章っぽい超高級リゾート@ドバイ

自アン+の箱を見ながらチャットしていて、自アン民のあの名状しがたい「自アン民らしさ」はなんなのかみたいな話になった。もちろんのこと vote.cgi あっての自アンであるが、しかし「自アンらしさ」の本質というのはそのシステム側でなく、それを利用しているユーザコミュニティ、つまりは「自アン民」側にあると思える(vote.cgi を使っていてもまったく違う性質のコミュニティとして発展してゆく例がいくつかあり、それらを「自アンらしい」とは思うことができないという話だ。やはり「自アン民が vote.cgi に集まってこその自アンらしさ」というか)。自アン民は、時々の変遷はありつつも、やはりどうにも「自アン民らしい」としかいいようのないなにかを維持しつづけてきている。まあ原理主義的なひとからすれば現在の自アン民はもはや違う性質のなにかであるのかもしれないが、しかし時々のほかのコミュニティ民と比較したとき、自アン民は常に連続して(あるいは不連続的に)自アン民であったといえるだろう。これは流動の激しいネットコミュニティ界においても、かなりおもしろい澱みのひとつだと思う。

で、じゃあたとえばこういう「自アン民らしさ」もまた「空気」下の性質なのか?と考えたとき、いやそれは違うなと思った。まあそれもあろうが、もうちょっと乾いた理由だ。これは感受性の反射で、理屈ではないので、後付けを試みてみよう。

  • 自アン民を律しているのは、空気とかそういう(参加者にある種の高度さを要求するようなレベルの制御)じゃなくて、もっとベタな「慣習」みたいなものだと思う。
  • べつにみんな空気読んでるわけじゃなくて、単に「こういう箱にはこういう投票」という、何度も何度も繰り返してきたことを反復しているだけ。
  • いままでにないおもしろいものは、新しく慣習として定着するか、または「その日おもしろかった即興」としてそのまま消える(vote.cgi は過去ログを残さないので、文字どおり「消える」)。消費は、されるかどうか怪しい(自アンはそれほど大きく貪欲なコミュニティでもないから)。
  • よい自アン民の基本は、まず「見たことのあるような箱(項)に、見たことのあるような票を投じることができる」ようになることである。「見たことのないような箱(項)に、小粋な反応を返せるかどうか」は二の次三の次。このようなコミュニティにおいて「半年 ROM」的なルールはわりと有効。
  • この「長い反復」というのが重要で、とにかく繰り返してきたというそれ自体によって無意味なものが有意味化されていく、というのが「自アンにおける伝統」。
  • だからある意味「徹底的に生産性、創発性から背を向けてる」という指摘は正しい。
  • 自アンのノリについて考えるとき、それが「客観的におもしろいかどうか」とかいう基準は、わりとどうでもいいのだと思う。でも「自アン的におもしろがれるかどうか」は重要。
  • 自アン特有のフレーズというのもけっこうあるわけだけど(最も著名なのは「なぜオタ」箱のテンプレートだろうか)、それも「延々反復され続けてきたものだけがフレーズとして残っている」、という形で取り込める。やっぱ古くからあって「それは自アン語だ」と認知されているもの以外は自アン語ではないわけだしなあ。
  • 実際長く自アン民やっていると、箱題みただけで「あーこういう箱ならこういう項が並んでて、こんなかんじの展開だろうな」とだいたい読めるようになる。これはそのひとの内容予想能力が上がっているわけじゃなくて、「かつて見たことがあるような箱には、かつて見たことのあるようなリアクションをする」という反復行動が染み付いているから(「多くのひとが予想内の行動をするからこそ予想が当たる」)。
    • 自アンでこういう箱ができると必ずこんな展開になりますよね」みたいなかんじの感想を非自アン民のひとが言ったんだけど、おれはそのこと自体に指摘されるまで不自然さを感じていなかった(当然だという感覚が強すぎて)。

…いやでも、こういうものも「空気」に含まれるわけかな。暮らしにおける「空気」には、こちらに近い性質もあるしな。

まあともかく、おれはこのような、視野が狭く、慣例に凝り固まって、柔軟性に乏しく、創発性に欠ける、自アン民らしさが好きだ。なにしろラクだ。自アン民として振舞うとき、頭を使う必要は一切ない。脊髄と指先だけで事足りる。感情もほとんど動かない。写経でもしているような気分。便所のラクガキのようでもある。そうであってこそ「それらしくあることのできる」場だ。視野を広くしたり、慣例を打ち破ったり、柔軟に即応したり、創発性を高めたりしたければ、自アン民としての立場を離れてべつのところでホームページとかブログとか仕事とか家族サービスとかやればいいのだ。そしてまた適当にネットにつないで自アンを見て、たまに自アン民をやりにくればいい。いつ見ても自アンは大して変わらない。もう七年ほど続いているコミュニティなので大枠はとっくに出来上がっており、以前に自アン民らしさを体得しておけば、半年や一年程度あけてもほとんどリハビリ期間なくノリに溶け込むことができる。