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南無阿弥陀仏

いつものように定食屋で定食を食っていたら、うしろの席に座っている若者たちの会話上に「死ねばいいのに」というフレーズが聴こえてきてピクリとしかけてやめる。はてな界隈でもあるまいしまたぞろ不細工な日本語が世にはばかっていることよと遠い目になったりしながら(←視力の低下を気にしている)、しばらく話を聞き流していると、彼らのいう「死ねばいいのに」は、はてな的な用法とは全然違って、どうも「本当に死んだらいいのになあ」というような話であったらしく、これはこれで手の施しようのないナイーヴさだなと思ったりもした。まあ誰が誰に対して死んだらいいと思っているかなどおれには関係のない話だし、ここで用いた「施す」ていう言い方も、なにか上からかぶせるような印象を与えるので好きではない。適切な日本語遣いというのはなかなか難しいものだ。さらには適切すぎてもいけないのだろう。TPO というものがある。けどネットの場合は TPO をどういう基準で測るかがまた面倒くさいところだ。時間などといってもいつまでが有効でいつからが無効かなどと分からず、情報に場というものはなく、対象は全世界といいつつまあ実効的な範囲はあるが、これも曖昧だ。いま目の前に確かに存在するほっけ定食のリアルさと比べようもないほど掴みどころがない。

「死ねばいいのに、か…」など思いながら、殺され加工され調理されおれの前に定食として現出したほっけの一生のことなどを想った。彼は幸福であったろうか。幸福ではなかろう。魚は本能で生きているといわれている。自分が幸福か否かなどと考え出すのが不幸のはじまりだ。生来のものではない。メタを内に取り込んだうえで幸福になれるほどの知性の持ち主は限らている。誰もがそこにたどり着けるわけではない。しかし幸福を教え込まれることにより人間はモチベーションを与えられるという一面もある。社会が望むのなら不幸もまたよかろう。小さなことだ。いずれどうとでもなる。あるようにしか生きることはできない。ほっけのように生きることを考える。小学校の頃には、養豚場の豚のように生きたいと思った。大人になってから変わったのは、哺乳類の比喩が魚類になったことだけかもしれんな。豚のように生きることはできないのは知っていた。社会科見学は小学校の授業だった。あのときには、教育され刷り込まれてから気付いたって手遅れということだ。手遅れにしか学ぶことはできないという絶望しかなかった。しかしあとからでもほっけのように生きることはできるかもしれないと今思えているというのは、よいことかもしれない。