matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

Capsule 遠距離恋愛ストーリー妄想

おれの勘ではたぶん「Super Scooter Happy」から「テレポーテーション」はつながってるね。「happy life generator」を中継して。おれの勘はすごくよく外れるので違うかもだけど。もしかしたら(聞いたことないので知らないけど)「S.F.sound furniture」以前のアルバムからつながっているストーリーなのかもしれない。とりあえず「S.F.」から「L.D.K.」までの 4 〜 6 作目についての A 面のストーリーはジブリプロモ曲ということになって、これは B 面のストーリーというか。

しかもこれはあんま当人同士にそんなつもりなさそうだけど傍から見て悲恋かもだね。このままいくと別れるね二人は。別れるというか離れる。うまくいったまま。悲しくならずに。そういう予感しかしない。それゆえの悲しさだ。この一連のストーリーはファンタジーでなく SF だから。なぜなら、第一におれは SF を支える重要な柱のひとつを「距離(速度)と心」と説明できると思っていて、第二にこれら三曲は「恋愛の距離感」についての歌という点で共通していて、したがってこれら三曲は SF というキーワード上においてのみストーリーとして集束すると判断できるからだ。SF である以上、それは悲しいのだ。もちろん世の中には明るい SF もあるし雄大な SF もあるし和やかな SF だってあるが、それでもやはり SF は悲しいとしかいえない。北方謙三三国志」風に説明すると、SF が悲しいのは、それが志であるからだとなる。北方三国志において、志とは、悲しみから生じる夢と説明される。そこからちょっとだけ脱線すると、おれは伝統的な SF においては野望でなく志が語られるべきだと考えている。

いちおう細かく並べると、

  • Super Scooter Happy
    • 恋人がいまそこに居ないときの歌。といってもラブソングって大抵そうだ。現物が目の前に居れば人間はだいたいイチャつくので忙しく、目の前に居ないからこそ想像し、それを歌にすればラブソングになるという按配。だから失恋でも未失恋でも、恋愛に関する歌のシチュエーションは大抵一人だ。
    • 「いまからきみに会いに行くから」など、距離はそれほど遠くない。といって近くもない。すくなくとも妄想上でもスクーターの出番がある程度には離れている。それぞれ自活しているようだ。学生?付き合い始めてそんなに時間が経ってないものと想像される。長くて半年。恋愛がハッピーなだけのものに見えている。性急さも感じる。酸素を求めるような。「渋滞の東京」とあるので、二人とも都内在住かもしれない。片方は郊外かも。
  • happy life generator
    • 関係は進展している。勘だが Super Scooter Happy とは主体が逆かもしれない。返歌かも。初期の情熱の間欠泉状態は去り、いい具合に湧き続ける温泉ってかんじか。二人の社会的立場もおそらく変化している。学生が社会人になったとか。一人称は「ぼく」だが、男かどうかはわからない(なんとなく、この二人は同性かもしれないという感覚が僅かにある)。Super Scooter Happy から比べると相当遠距離になっている。「遠くのきみに 届けテレパシー」とある。想像上でもスクーターの身体性では届きようのない距離。物理と心理の合致点がテレパシーということだろう。「都会のオアシス」とあるが、前作同様の東京かどうかはわからない。外国かも。海外出張?なんとなく東京 - NY 間での遠距離恋愛という想像も。後半で紅茶飲んでるのは彼女でみたいな(その場合歌は主体二人が交互に歌ってることに?)。
    • 「happy life generator」はプレゼント、もしかすると指輪かもしれない。「きみ」からもらったのか、「ぼく」がこれから渡すのかはわからない。まだプレゼントされていない気はする。
    • ごく僅かだが「もしかしてすでにこの次点で片割れが死んでるかも?」という気がちょっとしたが(その場合「きみが今なにしているだろう」というのは天国の想像となる)、もしそうなら「happy life generator」はその名で呼ばれないだろうから、やはり違う。二人の距離はそこまで離れていない。まあもし死後の世界というものがあるなら、片方が死んだ場合ふたりの世界を分かつのは生死の薄皮一枚ということになり、大した距離ではないかもしれないが。
  • テレポーテーション
    • 音色の問題もあるが、なんかイントロの時点から宇宙的な距離感を覚える。「星の果てまで」ともある。想像が宇宙規模になっているとき、その原因は物的距離でなく心的距離にあると見るべきだ。たぶん happy life generator と比べて実際の距離はそう離れていない。同じかもしれない。しかしその距離について諦観がみえる。情報の飛躍であるテレパシーに対して、テレポーテーションは身体の飛躍だ。限界を知るゆえの、かわいらしい無罪の空想。この歌の主体は二人の距離を、それがもはや届かないからこそ慈しんでいるように感じられる。まるで想い出のような。まるで時間のような距離感か。そうか。確かに宇宙的だ。
    • ということは、これは「別れたあとの歌」にも感じられるのだが、しかしまだ別れてはいないと思う。「届いているよ」とか現在形だし。まだなにも起きていない。しかしもう二人の間にある(またはない)なにかについて互いの理解は深まっている。いまはただ名残惜しいだけだ。この二人はたぶん傷つけあうことなく微笑んで別れていく。熱が冷めたということではない。そういうことではなく、大人になったのではないかと思う。この恋愛は完結するだろう。そして、恋愛だけが完結しても意味はない。心的距離が物的距離に緊張を与えるからこそ恋愛は二人のものだった。星の果てに行き着くようなテレポーテーションは身体性を捨てている。それはもう二人のものではない。
    • 「きみのテレパシー」とあり、「ぼくのテレパシー」ともある。happy life generator からつながっており、この歌には主体が二人居る。双方から歌われている。片想いではない。両想いの合意として出てきた歌だ。このストーリーは、この曲をもって終了するような気がする。

というかんじになる。こう書くとあまり「悲しみ」みたいな要素はないというか、べつに主体的に悲しい恋愛ではないのだが、SF としてはなんの問題もない。主体が悲しまなければ悲しくないのは、感情移入型の感想法に限られる場合だ。悲しみに関する SF 的精神はそこに依拠していない。ところで、たぶん関係ないが、おれの場合「ほしのはて」と聞くと最初に「星涯」を連想する。ギンコジか。おれはその世代ではないはずだが。ミームがいろいろ夢の旅ってるのかもしれんな。

なお、あんま歌詞とかはまじめに見ていない。聞き取れた単語や、メロディ、和音とか、音色などの諸々ごっちゃになった印象から生まれた脳内ストーリー。重ねて書くがおれの勘はよく外れる。