ゲームにおけるシナリオとは
いろいろあるが、いはゆる伝統的なビデオゲームにおけるシナリオというのは、手を変え品を変え勿体つけたり冗長になったりとかしながらも、青春文学における「ボクハココニイルヨ」と同様に、基本的にはただひとつのメッセージをプレイヤに伝えるために存在していたと言ってよい。つまり、
きみは人類最後の希望だ!
人類最後の希望を名指しされて立ち上がらないようでは男ではない、という時代(逆にいえば「選ばれたがゆえに選ぶ」というナイーヴさはこの時点でもすでに内包されている)。「戦争だ!」といわれればブツクサ不平言いながらもちゃんと戦ったアムロのように、おれがやらねば誰がやると腕まくりして挑んでいったのが往年ゲーマーだった。じゃあこれがエバンゲリオン以降の現代の場合だと様相は変わってるわけかな。碇シンジは「乗れ!」といわれてもまずそこで逡巡したわけだし。アニメ一本で世界が変わるわけはないのでそれは言葉あそびというものだが。
- 要約すると「きみは人類最後の希望だ」になるシナリオの方法論は、十分に開拓し尽くされており、安定している(枯れている)。
- 要約しても「きみは人類最後の希望だ」にならないシナリオの方法論は開発途上なので、みずみずしいけど不安定。