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三国志

十巻まで読み終えた。ローテンションの帯域は素早く読み進むのがいいとの判断からだったが、それを決めたところくらいまでがちょうどひとつの節目だったらしい。流れが急に転じることはなく、むしろ緩い流れのまま深く展開していったが、それがあれよあれよという間に怒涛の展開に結びついている。人物は死んでいく。失うものは大きい。しかし流れは途切れない。そういうものなんだろうなあと思う。アニメでやってた「横山光輝 三国志」のことなど思い出す。OP のタイトルが「時の河」だった。

  • 九巻の途中から、魏・呉・蜀という国名が出てきた。ついにおれも三国志の人名と国名をきちんと対応させて理解することが可能になった。曹操が魏、孫権が呉、劉備が蜀か。表層に触れるだけでフレーズくらいしか知ることのないライトユーザは、案外そんなことも知らずに歳を取るものだ。
  • 赤壁以降は無知の領域なので、まさかこいつがここで死ぬとは!という驚きの連続で新鮮。すばらしく勿体ないやつが勿体ない死に方をしてゆく。けどそれはそういうものだし、そこで死ぬことを惜しむようなことではないとも思う。
  • どれだけ偉大なキャラクタであっても、死んだあとにはまったく描かれることがないというのは一貫している。現在生きているキャラクタに回想され、会話に名前がのぼる程度の存在になる。そういった手法が、このあたりの巻になってくるといい味として浮き出てくる。居るべきだったはずのキャラクタがパタリと登場しなくなる、空洞のような感覚に、現在居るキャラクタたちの熱量が吹き込んできて、そうやって血は良かれ悪しかれ入れ替わっていく。質も量もスピードも変わる。死ねば終わりだけど無常とも違う。死の根底に宗教がないからだろうか。誰も振り返らない。懐かしんだり儚んだりしても、振り返っているわけではないと思う。簡雍ですらそう読めた。
  • 裸一貫となり一瞬だけ生気の吹き込まれたかにみえた張衛が、またすぐにやさぐれてしまった。しかも馬超の回想という形。うわーどうなるんだよこいつ浮かぶ瀬はあるのか。このままではフェードアウトする以外にない。いちおう大きな流れに絡みそうなあたりの土地を徘徊してるっぽいので、まだあと何回かはチャンスがありそうだけど。
  • 袁リン(糸林)に惚れられつつあくまで虚無的な馬超エロゲー主人公になれそうな勢い。その後袁リン(糸林)と連れ立って日本に流れてきて千年後の子孫が源義経だったー、みたいなんでも驚かない。そんでさらに源義経が北海道経由でモンゴルまで行ってチンギス汗になってな。
  • やはりおれも「ジャーンジャーン」とか「ゲェ!」とか「だまらっしゃい」とかの肌感覚を得るために横山三国志をきちんと読まなきゃだめかなあと思い始めてきた。そうなると喫茶店通いだな。ということは晩飯の経路選択の問題になるか。