matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

萌えバトン

モヒカン族の手斧より始末に困る baton シリーズ。lu-and-cy 氏から萌えバトンが飛んできた(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20050819#p1)。こうやってオタも萌えもオメガ競争圏に取り込まれてゆくのだなあと思う。

globalhead 氏版(05/06/20 スタート)と犬山のぼる氏版(05/06/30 スタート)のふたつあるようだ。おれに飛んできたのは犬山のぼる氏版らしい。これちょっとおもしろいのが、質問の最後に「n 人に回せ」という指示がないのに成立しているところ。バトン飽和によりそこは省略可になったということなんだろうな。属性、衣装、小道具、仕草、場所。萌えもずいぶんおおまかになったものだと他文化圏事ながら感慨深い。やはりあれか、動物がデータベースでポストモ団を結成したあたりからおかしくなったのかなあ。

で、がんばってみたんだけど、どうもやはりおれと設問の接点がなさすぎて解答しようがなかったので(同じ日本語上のコミュニティで発祥したものとはいえ、文化圏がちがいすぎる!)、「萌えとおれ」をまとめる…のは無理そうなので、書き出すことで解答に代えます。

  • 萌えとおれ
    • 萌えは、結果的にはコミュニケーションの不可能性の上にあります。
    • 多くの場合、メディア等を介して一旦おれと対象が切り離された状態を作ることで成立しえます。
    • 変則的に、「(主に役割を負った集団に属して)個対個の私的コミュニケーションを取るつもりがない」状況でも成立しえます。客と店員とか、街歩いてるときにすれ違ったグループ同士とか。
    • この仮定でいうと、たとえば「ワンピース」のルフィは、なにかに萌えるということが絶対にありません。彼は不可能性を前提としない世界観に生きているだろうからです。
    • 萌えが性欲と切り離されて考えられがちなのは、この「交渉不可能」には性交渉の不可能も含まれているからともいえるでしょう。ただ、おわかりのとおり、そんなのはあたりまえでいまさらのことです。結果から考えていては萌えはいつまでたっても蜃気楼です。たどり着くことはありません。発想を逆転させるのよ!成歩堂くん!
    • 二次元人相手に萌えが成立しやすいのは、大抵の二次元キャラはあらかじめメディア上に存在しているからです。
    • 三次元人たる我々の現在において、ほとんどの(いわゆる)メディアは二次元上のものと認識されます(モニタ、スクリーン、紙、そのほか)。余談ですが二次コンとかは、逆説的ですが、現行メディアのありかたを象徴しているようにも感じます。もし多くのメディアが、たとえば五次元上で展開するようなものだったとしたら、二次コンは五次コンと呼ばれていたに違いありません。
    • だからといって二次元には限りません。演劇等の舞台芸能もメディアと言えましょうし、飲み会や井戸端会議もメディアです。第三者的立場としての話題や記憶の共有というか、そういった状態であれば直接の関係性は消滅したといえるので、そこでも萌えは成立しえると思います。
    • また、そうした特性があるため、萌えは共有されやすいです(メディアとの親和性が極めて高い)。
    • メディアが存在して以降人類には常に萌えはじめるチャンスがあったのかというと、そのへんについてはまだ考えたことがありません。具体的には「萌え」という用語が発明される以前、萌えに相当する感情があったのかということです。何と呼ばれている領域にそれはあったのか、またはなかったのか。似たようなものはあっても別のものだったのか。用語は概念へのショートカットといえて、アクセスを容易にしますが、用語の発明以前にも(冗長にはなるでしょうが)説明可能だったのかもしれません。
    • で、たぶん説明は可能ということになるんだろうと大雑把に思っています。記憶を萌えベースで言語化することは容易です。ただ、それはそれだけの話に過ぎないともいえるわけです。わかりません。もし仮に「なかった」ということになると、現在ある萌えというものは、偽造されたなにかってことになるのかもしれないなあとも思っています。
    • 日本人は「肩こり」の概念を知っているので肩がこりますが、肩こりの概念を知らないアメリカ人は肩がこらないという話があります。ほんとかどうかは知りませんが、それが正しいとすれば、萌え発明以降にのみ萌えが存在していても、それは正しいし疑わしくないということになると思います。
    • ようするに感受性を表現する言語と、言語が決定づける感情は、どっちが先かわからないといったような話です。そして言語と感受性は、社会の中で生まれ育まれ、やがて社会と相互に影響しあいますから、いずれも定まりません。問題はディス・コン・ゲームだ(→ファッツ死亡)!
    • また話がアラスカの方角めがけてしまった。
    • 萌えのなんたるかを語りえない人間による萌え論は、童貞によるセックス武勇伝なみに涙ぐましいと思う。
    • いや、やはり萌えはなんたりえないフラグメント、オタ語における「永遠」と同種のなにかだと思います。それゆえ言語のうえではメタ的にしか触れることができない。「まことは T-8 を、S-8 を、そしてまたその間にあるすべてを信じた。今、この指でつながっている何かを僕は忘れない。きっと忘れない。忘れないで、ハーフライフ」、忘れて(喪って)しまった我々が手に入れた擬体(と書いてギミックと読むぜ MADARA)のひとつ、なのだろうか。
    • 硬質の永遠はそれゆえ美しいわけですが、消費によって砕け散ります。が、萌えは永遠と違い、消費とある程度の共存を可能とする場合があります。そこが萌えと永遠の大きな違いといえます。
    • オタの中には「萌えがわからない」というひとも居るが、そういうひとは萌えのことをわかる / わからないで考えようとするからこじれるのだ。そういう考え方・捉え方・感じ方がある / ないで判断すればよいだけのこと。2005 年現在に萌えは、あることになっているのだから、あるってことでいいのだ。周囲を見渡してなさそうだと思えば、その場合はないってことでよかろう。ないものならわかったりわからなかったりするようなものではないので悩まずに済む。逆にあれだ「生きる」の意味とか知って使っている自負でもあるのかという話だ。よくわからないところもありつつキャラとハートでおおまかカバーしていけばよく、したがってわかんなくたって「萌える」ということに何の問題もない。まずはそのへんでよかろうという話だ。でなければ用語「萌え」がこうまで普及したりはしない。
    • やおいの感受性をオタクに移植したのが萌えの原型じゃないのかってのもあります。これはまた上記のような筋合いとは全然別方向からの話ですけど。大雑把にいえば 90 年代初頭時点の男子文化は、ファンコミュニティの感情形成について女子文化に周回遅れだったといえるでしょう。
    • 過去メモ→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050711#p3
    • 足りないピースを探して、余計なパーツを背負い込んでしまったような…。

熟慮を重ねたすえ、おれが伝統的な意味で萌えているのであろう物件を三点に絞った。