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場に溜まる思考

おれの場合ひまになっても、きっかけさえ探せれば、毎日毎時さまざまに妄想して悶々とできるので当分退屈しない。だがそうやって妄想するというのは退屈のありさまそのものともいえるかもしれないので、やはり退屈はしていることになるかもしれない。

そうやった妄想のことを、おれはすぐに忘れてしまう。忘れるというか思い出せなくなる。「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」と銭婆も言っていた。忘れたわけではなかった証拠に、同じ場所で同じことしてる最中、以前そこで展開した妄想があたりまえのように継続されることがある。たまたま立ち寄った駅の立ち食い飯屋とか、滅多に行かないイベントの喫煙所とか、普段立ち寄らない近所の喫茶店の奥側の席に座った瞬間とか。なにも違和感がないので意識していないとその事態の特異さに気付かないが、いま考えてることが数ヶ月間隔くらいで合計五分くらい続いてるシリーズだったりする。こういうのってどこに記憶されてることになるんだろうなーと不思議に思ってきた。まあ味気なくいえば脳なんだろう。脳に圧縮され格納され、キーが入力されると展開し継続し、すぐまた差分を含んで格納される。だがそのキーというのが特定の場所・時間・自分の状態まで含んで冗長になっていると、記憶の主体をその場所と考えても不自然がない。頭も場所も必要条件なのだからどっちが主とか上位とか意味がないのだ。

場に溜まる記憶、思考。そこに行かないと思い出せない、感じられない、確かめられないこと。そういうものをおれはいろんな場所に置いて、置き去りにしてきたのだろうなあと思う。大半はくだらないことだ。足の裏のしびれはじめる順番の精密なマッピングのこととか、耳の左側から入って右側に抜けていくなにかについてとか。いつかかつて居た場所、通った道などを逆に辿って、そういったあれこれを確かめてみるのもいいかなと最近は思うようになった。ただ、確認するのは容易でない。なにしろ発動条件がわからない。しかも、経験上いかにも重要そうな場所には溜まっていない。居間でなくトイレとか、教室でなく渡り廊下とか、駄菓子屋でなくバス停とか、探しにくい、思い出深い場所でなく、しかし考えてみればけっこうな時間をそこで過ごしたかもしれないありふれたところ。忘れていることを思い出すためには、覚えている自分の過去が頼りにできない。なにかひとつ揃わないでもだめだ。ほとんど偶然に頼るしかなさそうで、時間のかかる話だ。本気でやりたいなら、そこで暮らすことになるだろう。そこまでして探したい過去がおれにはない。本当はあるのかもしれないのだが、忘れている。