現実を萌やす
おれの場合特にどの宗教に肩入れするでもなく、神様とか仏様とかあまり信じていないが、まあ世間に宗教があることにはある程度仕方ない部分もあるよなとは思っている。いずれおれにも宗教があってよかったと思える時が来るかもしれない。人間は歳食うと信心深くなると聞いた。その時手ごろな宗教を見つければ、入信したりするのだろう。昔は単に誰でも老い先短くなれば命が惜しくなってくるという話なんだろうと思っていたが、どうもそういうことだけではないらしいとだんだんわかってきた。人間の心理は簡単で複雑で、厄介だ。
ところで神様の話だが、神様が居ない場合、おれがなんでここに居るのかというと、それは偶然だという話になるかと思う。神様が居る場合、それは神様の思し召しとかになる。神様が格別ではありつつもありふれているような宗教観の場合、思し召しとかではなく神様も人間もなんかいい具合のアレで適当に、みたいな話になるのかもしれないが、そっちにいくとややこしいので今回は除外。ともかく思し召しか偶然かの二択でいいなら、偶然と神様の格は基本的に等しい。言い方の違いだ。ただし神様には偶然にないキャラクタ性がありうるので、そこを介して人間はそれに萌えることができる。それというのは現実のこと。現実を萌やすためのきっかけとして神があり、萌えを実践する手がかりとして宗教がある。おれがいまのところ宗教を必要と感じてないのは、現実を萌やす必要のないものと考えているからだろう。
…なんでこんなオタオタしいことを考えたかというと、lula 氏のフォトライフで見た「なべつかみ」(http://f.hatena.ne.jp/lula/20050529140759)という単語が日中脳内にひっかかってたからだと思う。なべつかみというのは鍋掴みのことだが、これ平仮名で書くと神様の名前っぽいよな。日本の神様の場合は名前に濁音は入らなかったと思うし、あとこんな細かいところにも神様が居るようならそれは多神教だろうから上記のような話では収まらないんだけど。
- (追記)関連するかもしれない話題→http://b.hatena.ne.jp/entry/300270