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ほしのこえ

ほしのこえ

とりあえず見た。なんといってもあの傷だらけのディスク(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050519#p3)がきちんと再生できたのは驚きだ。あとほしのこえってアスペクト比 4:3 だったんだな。なんとなく 16:9 なんだろうと思ってた。予告編も 4:3 だった。当時の作品で本編 16:9 はオサレすぎるか。レイアウトに経験も要りそうだし。内容についての詳しい妄想は後日。取り急ぎおれの「ほしのこえ」脳内マッピングの指標みたいなものをメモ。

  • とにかくおれの場合耳すまを踏まえることによってようやく「ほしのこえ」観賞への筋道が通った。それは発見だったし、納得した。具体的には「ほしのこえ」における GAINAX 社成分ってなんなんだろうなーという疑念のようなものが晴れた。細かいところ言い出すと「ほしのこえ」には「トップをねらえ」の三話っぽい雰囲気とかもなくはないんだけどそっちの話ではなくて、背景ワークとかそういった面について。彼女と彼女の猫の頃からガイナ背景ガイナ背景言われてたけど、でもそれってほんとに技法というかクオリティ管理的な部分についてだけでべつに全然 GAINAX っぽいわけではないんだよな新海誠氏作品は。そこへもってきて「耳をすませば」見てみたらジブリ背景がじつにまあいいかんじで、ははぁおれの迷路の出口はこれだったのかと。ジブリ背景ってすごいんだけどコストかかりすぎるので(←ここでいうコストというのはお金とかではなくて技能と時間)GAINAX 背景のが現実的ってわけなんだなたぶん。もちろんそれにしたって只者ではないわけだけども。きほんてきに「ほしのこえ」はトップをセカイ系的にチューニングしていったわけではなく、わーっと作る「耳をすませば」をふつうならどう考えても不可能であるところの個人ベースの作業に、針穴を通すような慎重さで落とし込んでいく過程で膨大に要素を削っていって、その過程で GAINAX 背景が妥当な技法として「選択された」のだろうというふうな納得のしかたをしてみたらしっくりきた。べつに最終兵器彼女とかトップをねらえとかカレカノとかフリクリじゃなかったわけだよ。耳すまでよかったんだ。おれはジブリ社のゆるい部分を見落としがちでどうもいけない。こういうふうに書いてると非常にこじつけっぽいわけなんだけどまあ心の納得を文章にむりやり書き出すとそんなもんだ。
  • ただまあ、じゃあほしのこえ耳すまに似ているのかというとそんなことは全然ない。もちろん別物。強いて比べれば、すごさやひどさでいうと耳すまのほうが圧倒的に格上だろう、けどまあ比べてどうにかなるような二作品ではないと思うのでひとまず置く。ああいや、やっぱりここは置いてはいかんのかな。書きながらちょっと悩もう。
  • また曖昧な話になるけど、おれは「ほしのこえ」は「ほしのこえ」のようにしか作りようがない作品だったのだろうと思っていて、つまりあれ以上よいものとかあれ以下のものとかがなくて、ほしのこえほしのこえ自体にしかならなかったはずだと強く思えるわけなのだった。新海誠氏のことをよく知らずに好き勝手書いてるんだけど、氏のスペックをなんとなく推測すればするほど、ほしのこえって、新海氏が自分を主役(というかひとりの個人作家)として創作するうえで完璧で唯一の正解だったのではないかと思えてしまうのだ。すくなくとも、あのような映像が「なんでもできるひと」の手によって作られたとは思われない。
  • 氏はたぶん裏方の仕事のほうが得意なのではないかと思う。絵作りはうまいし構成もできるしキャラもひととおり描けるし、なんでもできそうなんだけど、画面中央にあるべきものを描くことの不得手なひとに見えるから。つまり、キャラだ。べつに下手ってことではない、その他のパートの技量と比べての話だ。だからそのぶんのへこみをカバーすべくさまざまな趣向がほしのこえには凝らされていると思う。マイナスでなく特徴、アクでなく味わい、切り捨てたのではなく開放したのだ、そのように誘導し固定する技術。いちばん印象的なのは光源で、画面中央の重力の弱さをプラスに昇華するフィーチャーとして意図されているんじゃないかなと思われ、成功している(さらに細かくは画面の密度感の緩急制御にも有効に作用しているように感じられる)。氏の映像には逆光がおおすぎるとかよく言われるが、あの光はあれ自体キャラ(を補完するものとしてのキャラ格を持っている存在)なのだからバンバン出てきて当然なのだ。まあそういう細かい話はいい。ともかく、新海氏は、なにもしなければ、ほかの(重力の強いキャラを描けるという理由で)エースに抜擢されるようなひとと組んで、いい仕事をたくさんしただろうけどあまり強くその名をオタに印象付けることなく終わったひとだったかもしれない。けど実際にはその道を選ばずに、(裏方としての適正十二分の)有り余る自己の才能を総動員して、自分を主役に据えたムービーを作り上げたんだと思う。新海誠ひとり劇場、脇役たちの大逆襲、一世一代の大博打だ。そして成功した。たいしたもんだ。ほんとうにすごい。新海氏は日本全国津々浦々で名も知られず作品制作に携わる裏方さんたちの希望の☆になったと思う。
  • とりあえずの雑感としてついでに書いておくことがあるとすれば、作品のデコボコさについてだろうか。おれはほしのこえを見てミカコのことをかわいそうだなあと思ったが、これは作品中でミカコがひどい目にあうとかそういう話ではない。耳すまの雫に当然備わってあったような、自由な重みを感じなかったことについてだ。ミカコはかわいく描かれてるかんじがするのでかわいいなあと思いつつも、なんかちょっとグロい気がしていた。でもなんというかそのへんのことについてはちょっと書き出しづらい。おれの日記とはいえいちおう web に上げてるものだしな。とかまあなんとかかんとか、そういった作品自体への固有の印象について、いろんなひとが各人各様に反応することの容易な作品としてほしのこえはある。これはこれとして一個のプロダクトに完結していると思われる反面、とてもアンバランスな作品でもあると思う。未完成品が完成品というか。だから反応が多くまちまちで、語りやすい。微妙なニュアンスだが、対個人として一定の陶酔を提供し、対コミュニティにはツールとして機能するような作品が現代的には優れているんだろうと思う。ゴルゴとかもある意味そうで、仲間内でゴルゴの話してるときは馬鹿話にしかならないが、喫茶店とかで単行本を黙々と読んでるときには素直に没入している。ああいうかんじ。ゲーム以降のメディア感というか。固着してるんだけどインタラクティブに扱えるかんじというか。なんか胡散臭い話になってきてしまうなどうも。だから今年の DOGA CGA コンテストでグランプリ取った木霊氏の「MY HOME」を見たとき、まとまりすぎてていまどきにはひろがりづらいんじゃないかなとか余計な心配とかしてしまったのだった。まあそれも関係のない話だった。そろそろ寝よう。