書き名と読み名
絵描きのひとの名前には、字面でなんとなく認識しているものの正確な綴りが実はよくわかってなかったり、また字は書けるけどなんと読むのかわかってなかったりする場合が多い印象がある。かなり頻繁に見ているサイトの管理人のひとについてさえそうだ。というかおれの場合そういうひとがすぐ思い浮かぶだけで二人居た。kashmir 氏(http://picnic.to/~kashmir/)と saxyun 氏(http://www.geocities.jp/yubanegi/)だ。伝え聞いたところでは、kashmir 氏は「カシミール」と読み、saxyun 氏は「さっきゅん」と読むらしいのだが(←ソース曖昧なのでちがうかも)、おれは両氏の名前を知ってからそれぞれ一年ちかく「その名前をなんと読むのか」について手がかりさえ持っていなかった。かー、かー、かしゅみr氏?さー、さー、朔春氏?とか。
saxyun 氏についてはともかく、kashmir 氏の名前については辞書ひけば載ってる単語でもあるんだし(ていうか今調べた→http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=kashmir&kind=ej)、調べようと思えばすぐにわかったことだ。ようは調べる気にならなかった。氏の名前を「読めない」ことによっておれが困るというようなシチュエーションを想定しなかったからだ。読むというのは声に出すということで、声に出すというのは話題にする(乗る)ということで、「saxyun 氏や kashmir 氏の名前を音読できなければ困る」というのは、彼らの(≒ネット上の)話題を暮らしのうえで誰かと共有するという状況だ。まあそれはないだろと。ネット上の話題はネット上で共有すればよく、ネット上で共有するぶんに名前の読みがわからないことは問題にならない。実際おれは彼らの名前を音読できなくても困らなかったし、困らなかったから調べなかったし、いま手がかりを得ているのはたまたまで、特に努力はしていない。あれから数年インターネットをやめてないだけだ。
この日記をはじめるにあたっておれは自分のハンドルネームを頁作ということに決めたが、これは上記のような認識のうえに成り立っている。つまり、音読を想定していない。読みなどなくても困らんだろう。おれが困らないくらいだからひとも困るまい。字面のほうも、とりあえず無色っぽいかんじのものであればなんでもよかった。名前自体に強い意味があると、なんとなくその名に沿った言動をしなきゃならないような気分になってくるのでそれは避けたかった。親による子の命名には願いとかなんとかが託されていようから、それは重大な儀式だろうと思うし尊重するが、おれがおれに命名する際に後で面倒くさい感情を抱くことになりかねないような余計な色付けは避けたかった。自アンでは箱作成者が箱作、項作成者が項作というので、じゃあおれは自分の日記ページを作成するのだから頁作でいいかとかそんな程度の軽さで決めた。それだけではなんとなく締まらんので苗字を凡倉とした。凡倉には読みがあり「ぼんくら」だ。これには多少色がついてる。余計かなと思ったが、それくらいはいいかと割り切った。どうせ苗字なんか使わん。
だがそれが原因で近年ちょっと困った問題が発生することがある。OFF 会だ。頁作という名前に決めた時点では、この名をもって個々に HN を認知しあうような OFF 会に参加する事態など起こるまいと思っていたのだが、すでに何度か参加してしまった。これは困る。おれではなくほかのひとが困る。おれを何と呼ぶのが正しいのかわからないので確認のためのステップを要する。不親切だ。しかも正解を用意してない。弱った。初期の想定が甘かった。または、おれは読み方のない名前をつけることで「よもや OFF 会とかには参加するまいな」という縛りを自身に課していたが、すでに破られた。たとえ難解な名前であろうと「こう読むんです」と一回示せば事足りるように、あらかじめ読み方を決めておけばよかったのだろうが、おれとしてはこれはもう命名時点での不慮の延長であり、いまさら読み方を確定させて後手に回るよりは現状で押し切ったほうがマシとでもいうような開き直った気分だ。結果、ぺーさくとかこうさくとか matakimika とか(本名)とか、いろいろ呼ばれることになった。もうしわけない。
まとめ。
- ネット上で完結する関係構築のためにつける HN には、読み方は不要。
- OFF 会等のオフラインを想定するなら、読み方は必要。
- おれのように 1 から 2 にスライドした人間は後悔する。不要であっても一応自分の名前の読み方は考えておいたほうがいいかも。