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次世代 ADV

ほっといても世の中は動いている。動いているが、自分のしあわせについてほっといても世間が勝手に動いてくれない部分は常にあるので、個人の努力というものはつまり、ほっといても誰かがやってくれるわけではない部分にリソースを費やしていくことだなと思う。それはそれとして、ほっといたら誰かが考えて実践してくれるであろうことについて、答えが出るまえに自分でもいちおうひととおり満足いくまで考えておきたいというようなこともまたあり、それがたとえば同時性サスペンス享楽とかそういったようなものとして受け容れられていくんだろう。

というような絡みといえばそういえなくもないことなのだが、「逆転裁判」と「DEATH NOTE」と「ひぐらしのなく頃に」の三作品をベースにしてそれを ADV という土俵に落とすとしたら、どういう実体が妄想できるかについて一日数秒くらい考えたり考えなかったりしながら、それとまた別に、フローチャートや表のような 2D 管理から ADV が仮に脱却するとして、そうしたものをプレイヤとして単純におもしろがれるかというような疑念とか、まだなんの形にもなっていないが、そういった沈殿物が溜まってるきがする。ていうか 3D 以上のゲームというのは、それが ADV の様式を取ったとしてもおそらく開発上でも消費者側でも SLG としてしか認識できないものになるはずで、じゃあそれは土俵の設定がまずおかしいじゃないかみたいなあれでもあり(←より広汎に事例を探せばそういった思想上のものともいえるタイトルはすでにいくつもある)、ていうかそんな瑣末なことはいいのだがしかし、うーむ。まあそれ以前におれは、「DEATH NOTE」は単行本を二巻まで流し読んだだけ、「ひぐらしのなく頃に」についてはいまだザ・ビッグバトル中であり、考えるためにはまず勉強せな。

ついでにもうちょっとメモっておくと、上で書いている 2D や 3D というのは見た目のことでなくゲームの構造というか話の仕組みのこと。ある意味「紙(二次元)に書ける範囲で説明でき、2D の図表で把握することの可能な構造体(または結果として 2D に固着したもの)」のことを人間は物語と認識しているといえるのではないかみたいなあれとか。逆にいうと紙に書き出すことでは説明できないような構造について、それを物語であるというふうに認識することについて、おれは誰かと合意することができるのかとか。たぶんできないと思っておいたほうが安全で、ならば物語に固執したければ最終出力を 2D として、それより上位の次元はバックヤードとして使って組み替えや自動生成みたいな話になっていくのか。曖昧だな。オーガニックな「街」とか?曖昧すぎる。

ANOS とか「天国から来た男」とか、X68k 時代の開拓的精神の歴史とかを勉強し直したほうがおもしろそうだなあ。