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ポジティブな衝動

コミックマーケット67開場前041229 | 2

人間の生はポジティブな側面だけで単純に割り切れるわけでもなかろうと思うので(←「先祖伝来連綿とパッチを当て続けて発展してきた我々の精神のコードが、ドキュメントなしで分解できるほど単純なものである確率は限りなく低かろう」から)、強引にそれをやろうとしたって趣味の領分を出ないはずというか、そうすることで生まれる理と情の乖離感を制御できるようなら、そもそも普段抱えがちの個人的な悩みなど悩むに足りないと断じえる境地であるはずなので、無理筋よなと思いつつ、しかし、どうも天に唾吐くのに似た挑戦は、ひとの反骨心を刺激してやまないっぽいよなあというのが、この数年抱えている問題。たとえば下の二件。

あくまで一例だが若オタ問題などだ。

スレイヤーズが好きだった 10 代の僕を、どうやって肯定すればいいんですか!」

おれから見れば過去は肯定も否定もする必要がないといえる。過去は過去であって、それを評価するのは常に移り変わっていく現時点でしかなく、関係は強くない。その場その場の話でしかなく、つながってみえるだけで、連続性は幻想だ、なぜならそれはおれの精神が保証しているだけのもので、そしておれの精神の信頼性の低さは、それこそ過去にプラスだけでなくマイナスの評価もできる程度の客観性があれば自ずとわかる。誤ることのあるものだけが保証しているものを、前提のように肯定するのはおかしい。まあふとんの中でもがくことはある。だがそれは単にもがきであって、過去を否定するからではないし、肯定的な過去がおれをふとんの中でもがかせることだって当然あり、やはり関係ではなく、反応にすぎない。だから過去は、セッション毎に評価して、ふとんの中でもがくものだ。といってもこれは、おれだけが納得している話でしかない。まあ、その程度のものなら逆に信用することにして己をおもしろがったほうが人生たのしいかもってのはある。

現在から過去を振り返って耐えがたいほどに巨大な青春のくさい玉が転がっていたときに、人間は咄嗟に蓋をして黒歴史化する。妥当な安定化措置だろう。だがここでおもしろいのはその黒歴史を「どうやって肯定すればいいんですか」と問う若オタが、どうやら 21 世紀になると現れたらしいことだ。いまより先に進むため自ら黒歴史化したものを解体し昇華することこそが正しいと信じているのか。いや信じてはいまい。いや案外本気なのかもしれない。おれにはわからない。そこがわからないうちは、両方の可能性を検討したほうがいい。

このコンフリクトは完全に自己内のものだ。客観的な黒歴史などというものはない(集団の中にあったとしても、個別のそれを持つ同士が共感を得ているだけだ)。昇華も結果として観測されることこそあれ、その実の部分は個人内にある。黒歴史化も昇華も各個に成立する事例なら珍しくないが、これが同時となると、おれなどからすれば上位次元だ。昇華するつもりがあるならそもそも黒歴史化しなければよいだけの話で、逆に黒歴史化したのであれば昇華するとか考えなければいいのに、そのどちらもやりながら己の正しさを疑う姿勢がまったくない潔さというか。馬鹿ではない。困難とも違う。若さではあるかもしれない。無自覚かどうかはわからない。結果的には、相当にアクロバティックな選択と思える。かれらの心が眩しすぎておれはその実体を捉えることができない。万一そういうかれらの中に、本気で己を疑わず、しかも実際にそれをやり遂げるようなひとが現れるとしたら、おれはこのままではそういうひとのことが理解できないだろう。だからいずれそういうひとの実在をおれが知ったとき、彼らの言語を理解しながら聞くことができるように、おれはあらかじめ考えておかないといけないような気がする。

で、あとオタじゃないふつうのひと問題のほうは、「勇者としての若者」とか「埼玉の心の闇」とか「DQN 的な精神構造」とか(←おれの場合こういう文脈上の「DQN」は、単に特徴の方角を大雑把に指示する程度の意味で使っており、評価のニュアンスは含んでいない)、場合ごとにいろいろと評価のタグをつけて適当に済ませてきたが、そろそろそういうことをしなくてもいい程度には全貌がつかめてきた気がする、が、こっちももうちょっと保留。